伝記
ジョージ・シュルツは、1920年12月13日にニューヨークで生まれ、2021年2月6日に100歳で没したアメリカの政治家、経済学者である。1982年7月から1989年1月まで国務長官を務め、それ以前には労働長官、行政管理予算局局長、財務長官を歴任した。四つの閣僚級の職を務めた人物は、エリオット・リチャードソンと並んで二人だけとされる。
一人っ子として生まれ、ニュージャージー州エングルウッドで育った。曽祖父は19世紀半ばにドイツから移民した人で、ロックフェラーと結びつくプラット家の一族ではないという。プリンストン大学で経済学を学び、卒業論文ではテネシー川流域開発公社が地域の農業に与えた影響を現地調査で論じた。1942年に優等で卒業すると、同年に海兵隊に入隊して1945年まで現役で務め、砲兵将校として大尉に昇進した。1943年秋にはナヌメアで戦闘に加わり、のちに陸軍の第81歩兵師団に配属されてアンガウルの戦いにも参加した。1946年2月にヘレナ・マリア・オブライエンと結婚し、5人の子が生まれた。
戦後はマサチューセッツ工科大学で学び、1949年に産業経済学の博士号を得た。同大の経済学部とスローン経営大学院で1948年から1957年まで教え、1955年にはアイゼンハワー大統領の経済諮問委員会に上級スタッフエコノミストとして加わった。1957年にシカゴ大学ビジネス大学院の教授となり、1962年から1968年まで学部長を務めた。シカゴではミルトン・フリードマンやジョージ・スティグラーの影響を受けたという。
ニクソン政権では1969年1月から1970年7月まで労働長官を務め、建設業者に黒人の受け入れを求めるフィラデルフィア・プランを実施した。同年7月に初代の行政管理予算局局長となり、1972年6月から1974年5月までは財務長官を務めた。この間、ポール・ボルカーやアーサー・バーンズとともに金本位制の終了とブレトン・ウッズ体制の終了に関わった。1974年5月に政府を離れ、ベクテル社の社長に就いた。
1982年7月16日、レーガン大統領から国務長官に指名された。タカ派の多い政権の中で穏健な外交を主張し、しばしば対立した。ソ連の指導者ゴルバチョフとの関係を築くようレーガンに働きかけ、米ソの雪解けにつながったとされる。イラン・コントラ事件では、イランへの武器供与を対価にした人質解放に反対の意見を述べ、世論の注目を集めた。一方でニカラグアには強硬で、1983年には議会で「我々はニカラグアの癌を切除しなければならない」と証言した。1985年にはオルテガ大統領との交渉に反対し、力の裏付けのない交渉は降伏の婉曲表現にすぎないと述べた。
1989年1月20日に辞任したあとも共和党の参謀として活動し、ドラッグの合法化を唱える急先鋒となって保守派を驚かせた。1998年6月にはニューヨーク・タイムズ紙に、薬物との世界的な戦いが薬物乱用以上の問題を引き起こしているとする広告に署名して掲載した。2000年の大統領選ではジョージ・W・ブッシュの選挙参謀を務め、政策顧問団の上級顧問にもなり、2003年3月のイラク戦争を支持した。2011年から2015年にはセラノスの社外取締役を務め、2013年からは炭素に対する課金と配当の仕組みを訴えた。最初の妻は1995年9月に亡くなり、1997年8月にシャーロットと再婚した。2021年2月6日、カリフォルニア州スタンフォードの自宅で亡くなった。
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