伝記
アフメト2世は、オスマン帝国の第21代皇帝(在位1691年〜1695年)である。1643年2月25日(1642年8月1日とする説もある)に、皇帝イブラヒムとムアッゼズ・スルタンの子として生まれた。メフメト4世とスレイマン2世の弟にあたる。1649年10月21日に、二人の兄とともに割礼を受けた。父の死後、帝位を継がない皇子たちが暮らす幽閉所、いわゆる「黄金の鳥籠」に入れられ、即位するまでの間、およそ43年にわたって幽閉されて過ごした。
兄スレイマン2世が亡くなったことで皇帝として即位した。即位後は、大宰相キョプリュリュ・ファズル・ムスタファ・パシャを引き続きその座に据えた。彼は歴代の大宰相を出したキョプリュリュ家の出身で、父キョプリュリュ・メフメト・パシャの例にならい、汚職の罪で前政権の官僚数十人を解任または処刑して、自らに忠実な者と入れ替えた。税制を戦争による納税者の負担に合わせて調整し、アナトリアやバルカンの部族から兵を徴発する仕組みも整え始めた。1690年10月には、1521年からオスマン帝国が保持しながらハプスブルク軍に奪われていた要衝ベオグラードを奪回した。この勝利は、1680年代に失ったハンガリーなどを取り戻せるというオスマン側の期待を高めたが、長くは続かなかった。1691年8月19日のスランカメンの戦いで、ハプスブルクの総司令官「トルコ人ルイ」ことルートヴィヒ・ヴィルヘルムに大敗し、大宰相を含む2万人を失った。キョプリュリュ家の最後の大宰相を失ったことは大きな痛手となった。
その後も敗北が続いた。ハプスブルク軍は1692年6月にオラデアを征服し、1694年のオスマン側の奪回の試みは失敗した。1695年1月12日にはジュラの要塞を明け渡すことを強いられ、帝国の領土はティサ川以東とマロシュ川以南に残るだけとなった。ドナウ川沿いの軍事的な境界線は、おおむね膠着状態となった。
内政では、1691年の勅令により、キリスト教徒の人頭税の徴収方法が改められた。従来は村単位で総額を課していたのを個人ごとに課し、課税のときに証書を渡して不正を防ぐものとした。ところが本来納税を免除されていたギリシャ正教会の聖職者にも課税されることになり、彼らはイスラム法に背くと訴え出たが、アフメト2世は原則を変えなかった。この扱いが、のちの19世紀以降のバルカン諸民族のナショナリズムを刺激したとされる。1695年には、16世紀末に導入された徴税請負制に終身制が導入された。任期付きの請負人が過度の収奪に走って納税者が苦しんだため、長期的な視野での徴税が期待された。これを機に終身の請負人は各地の有力者となり、アーヤーンと呼ばれた。アーヤーンは戦争に協力することもあれば、反乱分子になることもあった。
1695年2月6日、エディルネ宮殿で在位4年にして亡くなり、甥のムスタファ2世が後を継いだ。大宰相シュルメリ・アリ・パシャは、遺児イブラヒムを即位させようとしたが、その前にムスタファ2世が長老らに容認されて失敗に終わり、のちに解任されて処刑された。寵愛したラビア・スルタンとの間に、双子の息子イブラヒムとセリムがいた。
同じ年に亡くなった人物
- フランソワ・アンリ・ド・モンモランシー (リュクサンブール公) (1695年没)
- ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウ (1695年没)
- ヨハン・アンブロジウス・バッハ (1695年没)
- パウル・ヘルマン (1695年没)
- ピエール・ミニャール (1695年没)
同じ地域に関係する人物
- ムラト2世 (1451年没)
- キョプリュリュ・メフメト・パシャ (1661年没)
- キョプリュリュ・アフメト・パシャ (1676年没)
- ニケフォロス・ブリュエンニオス (1095年没)
- Patriarch Cyril VII of Constantinople (1872年没)