伝記
メフメト4世は、1642年1月2日に生まれ、1693年1月6日に没したオスマン帝国の第19代皇帝である。在位は1648年から1687年で、父イブラヒムが廃されて殺害されたのち、幼くして即位した。母はトゥルハン・スルタン、祖母はキョセム・スルタンで、スレイマン2世とアフメト2世の兄、ムスタファ2世とアフメト3世の父にあたる。在位は約39年に及び、スレイマン1世に次ぐ長さとされる。
生まれて間もないころ、父イブラヒムが後宮の女性たちに溺れたことに母トゥルハンが激怒して大喧嘩となり、これに巻き込まれた幼いメフメトは、父によって貯水槽(井戸ともいう)に投げ込まれた。召使いに助けられたが、額に傷が生涯残ったという。1649年には弟たちとともに割礼を受けた。即位後の宮廷では祖母キョセムが引き続き権力を握っていたが、これに対抗する人々は母トゥルハンのもとに集まった。キョセムが、扱いやすい弟スレイマンを即位させようと企てているとの疑いが強まり、1651年にキョセムは殺害された。財政立て直しのため1652年に大宰相に任じたタルフンジュ・アフメト・パシャは、関税や役所収入を増やし、無駄を減らし、汚職に厳罰を科し、史上初といわれる翌年度予算を作った。だが反発を買い、帝の退位を企てているという噂まで流れて、1653年3月に処刑された。1656年にはヴェネツィア艦隊が再びダーダネルス沖を封鎖し、イスタンブールは食糧不足にも見舞われた。
こうした混乱の中、母トゥルハンはキョプリュリュ家を登用し、1656年9月にキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就いた。彼は敵対する軍人たちを粛清して権力を握り、1657年にエーゲ海でヴェネツィア海軍を破って封鎖を解いた。さらに1660年にトランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世を討ったが、これがこの地域の均衡を崩し、1663年にハプスブルク家との戦争が再開した。後任の大宰相キョプリュリュ・アフメト・パシャはウイヴァールの城砦を陥れたが、ザンクト・ゴットハルトで大敗した。それでも、翌年のヴァシュヴァールの和約はオスマン側に満足のいく内容だった。1669年にはクレタ島を征服してカンディア戦争を終わらせ、1672年にはポドリアをポーランドから奪った。この時期、オスマン帝国のヨーロッパにおける領土は最大となった。1660年7月にはイスタンブールで大火があり、市街の大半が焼けた。その跡地には、新モスクや香辛料市場が建てられることになった。
1683年、大宰相カラ・ムスタファ・パシャは大軍を率いてウィーンを包囲したが、ポーランド王ヤン3世らの救援軍に敗れ、大トルコ戦争が始まった。1686年にブダを奪われ、1687年のモハーチの戦いに敗れると反乱が起こり、メフメト4世は退位して弟スレイマン2世に帝位を譲り、エディルネで幽閉されたまま没した。死の数年前の1691年には、弟スレイマン2世の重病と死期が迫ったのを受けて、メフメトを復位させようとする陰謀が発覚したが、失敗に終わっている。
政治はキョプリュリュ一族に任せ、自身は狩猟にふけり、狩人を意味するアヴジュの愛称で呼ばれた。エディルネを居城とするのは、イスタンブールのイェニチェリや有力者の影響を弱めるためだったと考えられる。狩りの途中で立ち寄る町で非ムスリムに自発的な改宗を促し、改宗者に祝い金を与えて、その実績を宗教的偉業と讃えられた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・カスパール・ケルル (1693年没)
- ラファイエット夫人 (1693年没)
- ローラン・カセグレン (1693年没)
- マリア・ファン・オーステルウェイク (1693年没)
- フィリップ・クプレ (1693年没)
同じ地域に関係する人物
- スレイマン2世 (1691年没)
- Agathangelos of Constantinople (1831年没)
- ムラト2世 (1451年没)
- ルイ1世 (ブロワ伯) (1205年没)
- ギュルヌシュ・スルタン (1715年没)