伝記
ダニエル・トロイティッチ・アラップ・モイは、1924年9月2日に生まれ、2020年2月4日に没したケニアの政治家である。1978年10月から2002年12月まで第2代大統領を務め、ケニア・アフリカ民族同盟(カヌ)に所属した。ケニアで最も長く大統領の座にあった人物とされる。
リフトバレーのクリエンゴ村に生まれた。トロイティッチは「牛を家へ迎える」を意味し、アラップ・モイは「モイの息子」の意である。父キモイは1928年に亡くなり、モイは4歳だった。母カボンについてはほとんど分かっておらず、兄のトゥイトエクが後見人となり、親戚のチェシレ家で育った。カレンジン人のうちトゥゲン人の出身で、1934年に牧童の中から推薦されてアフリカ内陸伝道団の学校に入った。学校でキリスト教徒となり、ダニエルの名を採った。植民地政府にアライアンス高校への入学を認められなかった後、タンバッハ教員養成学校で1945年から1947年まで学び、その後カグモの教員養成学校にも通った。1946年から1955年まで教員として働き、ケイヨ地区では学校の校長も務めた。
1955年、立法評議会のリフトバレー選出議員に選ばれて政界に入った。前任のジョン・オレ・タメノ博士が、深酒と独立運動との関係の疑いで辞めざるを得なくなり、その後任とされたのである。1957年に再選され、独立後の最初の憲法を起草したロンドンのランカスター・ハウス会議にもケニア代表団の一員として加わった。1960年にはロナルド・ンガラとともにケニア・アフリカ民主同盟(カドゥ)を結成し、ケニヤッタ率いるカヌに対抗した。カドゥは連邦制の憲法を求め、カヌは中央集権を支持したが、数で勝るカヌが優位に立ち、独立後の憲法は統一国家の形をとった。モイは1961年に独立前の政府で教育大臣となった。
1963年12月12日にケニアが独立すると、ケニヤッタに説得されてカドゥは解散し、1964年にカヌへ合流した。ケニヤッタは1964年にモイを政府に迎え、1967年に副大統領へ昇格させた。キクユ人のエリート層である「キアンブ・マフィア」の反対があったが、ケニヤッタはモイを副大統領に留め続けた。1978年にケニヤッタが死去すると、モイが大統領に昇格した。
当初は国内外で人気があり、西側諸国はエチオピアやタンザニアなど東側寄りの政権に対抗する存在として見ていた。しかし統治は強権的で、カヌ一党独裁のもとで自民族を優遇してキクユ人などの多数派を冷遇し、反体制派を多数弾圧、投獄したと指摘される。冷戦後に経済が停滞すると不満が高まり、圧力を受けて1991年に複数政党制の選挙を認めざるを得なくなった。それでも野党が統一できず、1992年と1997年の選挙にカヌを率いて勝利したが、独立した監視者からは自由でも公正でもなかったとされている。人権団体や国連の特別調査は人権侵害を非難し、退任後の調査ではモイと息子たちが大規模な汚職に関わった証拠が見つかったという。
憲法上三選できなかったモイは、2002年に引退を表明し、ケニヤッタ初代大統領の息子ウフル・ケニヤッタを後継候補に指名した。だが与党内の反発も大きく、選挙でムワイ・キバキに敗れた。2020年2月4日の早朝に95歳で死去した。違法取引された象牙の山に自ら火を点けて燃やした行動は世界的に有名になり、1987年からは複数額面のケニア・シリング紙幣に肖像が使われている。
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