HISTORICAL PERSON · 2020年没

タバレ・バスケス

ウルグアイの医師出身の政治家。2005年に同国初の左派政権の大統領となり、2015年にも再び就任して、第39代と第41代を務めた。

生涯
2020年没
死亡地
ウルグアイ東方共和国(モンテビデオ)
出生地
ウルグアイ東方共和国(モンテビデオ)
出典
世界地図
ウルグアイ東方共和国(モンテビデオ)

伝記

タバレ・バスケスは、ウルグアイの医師で政治家である。1940年1月17日にモンテビデオの労働者街ラ・テハで生まれ、2020年12月6日に没した。第39代と第41代の大統領を務め、2005年から2010年までと2015年から2020年までの二つの任期に就いた。

父エクトルは国営石油会社アンカップの労働者、母はエレナ・ロサスで、五人きょうだいの四番目として育った。祖父母はスペインのガリシア地方の出身とされる。1951年の労働争議で父は解雇され、投獄された。このとき本人は11歳だった。10代のころはサレジオ会の運営するセンターで活動し、1956年に16歳で書記長に選ばれた。1958年には仲間とクラブ「エル・アルボリート」を作り、自らはゴールキーパーを務めた。のちにクラブが地域で重みを増すと会長となり、診療所が開設され、月に400人以上の患者を診るまでになった。

学業は働きながら進めた。大工の見習い、雑貨店の店員、新聞売り、ガラス職人などの仕事を経て、1959年にはワインと酒類を扱う会社に入り、事務から研究室の仕事へ移った。1963年に共和国大学医学部に入り、1969年に一般医、1972年に腫瘍学と放射線治療の専門医の資格を得た。フランス政府の奨学金でパリのギュスターヴ・ルシー研究所に学び、1981年にはウルグアイ国立腫瘍研究所の放射線治療部門の責任者となった。論文は共著を含めて100本を超え、1986年には同僚二人とともに、のちにCORクリニックと呼ばれる腫瘍治療の診療所の株式の75%を取得した。同じ1981年には腫瘍医としての研修で京都に3カ月滞在している。1985年には神戸のユニバーシアードにも参加し、訪日の機会が多い親日家として知られた。サッカーにも深く関わり、1979年にアトレティコ・プログレソの会長となって、1989年のクラブ初の一部リーグ優勝を率いた。

政治家としては1960年代から左派を支持し、1985年の民政移管後に頭角を現した。1988年には恩赦法に関する国民投票委員会の財政部門の責任者となり、1990年にはモンテビデオ市長に就いて1995年まで務めた。市長職は、左派の候補者が国内で重要な選挙職を得た最初の例とされる。1994年と1999年の大統領選に出馬し、1996年には左派連合の代表となった。2004年10月31日の選挙では51.7%の得票を得て当選し、2005年3月1日に就任した。ウルグアイ初の左派政権であり、伝統的な二大政党の優位に終止符を打つ出来事となった。1期目の2006年には、南米で初めて屋内の公共の場での喫煙を違法とする禁煙政策を実施した。2014年の選挙で再選され、2015年3月1日から2期目を務めた。2015年10月にパリへ向かう機内で、ピーナッツアレルギーを起こした10代のフランス人女性を主治医とともに治療して救った。2005年と2010年にも機内で急患に対応したという。

2015年11月に大統領として訪日した。2018年12月には安倍晋三首相がウルグアイを訪れて会談し、牛肉の相互輸出の解禁などを確認したと報じられた。2019年8月の健康診断で腫瘍が見つかり、肺がんの治療を受けた。2019年7月31日には妻マリア・アウシリアドーラを亡くしている。2期目の大統領退任から9カ月後の2020年12月6日、自宅で死去した。

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