HISTORICAL PERSON · 1689年没

クリスティーナ (スウェーデン女王)

父王の死後6歳で即位したスウェーデン女王。ヴェストファーレン条約で領土と賠償金を得て、グロティウスやデカルトを宮廷に招いた。従兄カール10世に王位を譲り、カトリックに改宗してローマに定住した。

生涯
1689年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
スウェーデン王国(ストックホルム)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

クリスティーナは、17世紀のヴァーサ朝のスウェーデン女王で、在位は1632年から1654年で、フィンランド大公を兼ねた最後のヴァーサ家のスウェーデン君主であり、後世の歴史家から「バロックの女王」と呼ばれた。1626年12月8日(グレゴリオ暦では12月18日)に、国王グスタフ2世アドルフと王妃マリア・エレオノーラの娘として生まれた。誕生時に毛深かったため男児と誤認され、一時は王子誕生の誤報が流れた。王子を望んでいた母は落胆したが、父は「我々皆を騙したのだから賢い子になるだろう」と喜んだという。父から早くに後継者に指名され、古典や神学、帝王学に加えて騎馬、剣術、狩猟まで、王子のように教育された。本人も手芸や人形遊びを好まず、乗馬や射撃を得意とした。美しいドレスや装飾品にも関心がなく、服の汚れを注意されると、他にすることのない者に言えばよいと答えたと伝わる。

父王の死により6歳で即位し、このころから男装して過ごしたとされる。初めは宰相アクセル・オクセンシェルナ伯爵の補佐を受け、三十年戦争とトルステンソン戦争が終わる1644年頃から親政を行った。ヴェストファーレン条約では、ポメラニアなど多数の都市と賠償金を得た。スウェーデンは当初、敗戦国へ膨大な要求を突きつけたが、女王はこれを拒んで大きく譲歩し、妥協による講和を成立させた。この態度は国内で臆病な平和と非難され、オクセンシェルナら守旧派の反発を招いた。さらに神聖ローマ皇帝に迫ってプロテスタントの権益を広げさせ、クロムウェルのイングランド共和国と同盟して、スウェーデンの大国としての地位を固めた。一方で財政には疎いか無関心であり、のちの財政難の一因を作ったとされる。

学芸への関心は深く、ラテン語、フランス語、スペイン語に通じ、グロティウスやデカルトらと交わり、宮廷に招いた。デカルトには心酔し、1649年に三度の親書を送り、軍艦で迎えさせて、10月にストックホルムを訪れた彼から1650年1月に早朝5時の講義を受け始めた。53歳のデカルトには厳しい日々で、真冬の寒さと無理がたたり、講義を始めた翌月に肺炎で亡くなった。ヴォルテールは彼女を、王位を惜しげもなく捨てて名を残した天才的な女性と賞賛したが、フォンテーヌブローで家臣を殺させたことは非難している。

20歳のとき退位を計画し、その7年後の1654年に従兄のカール10世へ王位を譲って外遊に出た。翌1655年にインスブルックで誓絶式を行ってカトリックに改宗し、12月にローマへ着いて、以後はローマを拠点とした。1660年にカール10世が没すると、ストックホルムに戻って復位の可能性に言及したが、受け入れられず、1662年にローマへ帰った。1668年にはポーランド王が退位して王位の自由選挙に名乗り出た。カトリック信仰と独身を貫く姿勢を掲げて支持を集めようとしたが、王位はミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキが継いだ。ナポリ王位を目指した試みも実らなかった。以後は学問、芸術、文学の研究に励み、1674年にはローマにアカデミーを創設した。1689年4月19日にローマで没し、サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。1965年の再調査では遺体は明らかに女性のもので、両性具有という説は根拠のない噂とされた。

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