伝記
聖ニニアンは、キリスト教の聖人である。現代のスコットランドの一部に相当するピクト人の間での初期の宣教師として、8世紀に初めて言及された。そのため南方ピクト人への使徒として知られ、ローランド地方を中心とするスコットランド各地や、イングランド北部の一部に、彼にささげられた教会などが数多くある。スコットランドではリンガン、イングランド北部ではトリニアンの名でも知られる。主な寺院はガロウェイのホウィットホーンにあり、ラテン語で「白い家」を意味するカンディダ・カサと名付けられた。397年前後の設立とされるが、彼の教えについては何も知られておらず、生涯についての確実な裏付けもない。
最初の言及は、731年頃にノーサンブリアの修道士ベーダ・ヴェネラビリスが著した『イングランド教会史』の短い一節にある。それによれば、ニニアンはローマで指導を受けたブリトン人で、ブリトン人の間では一般的でない石の教会を造った。司教座はトゥールのマルティヌスにちなんで名付けられ、南方ピクト人に説教して改宗させ、バーニシアの「カンディダ・カサ」と呼ばれる場所に多くの聖人とともに葬られたという。ただしベーダは事実として断言せず、あくまで伝えられた話として記している。そのころホウィットホーンにはノーサンブリアの監督教区が置かれており、ベーダの記述はその新しい教区の正統性を支えるものだったとされる。
1160年頃には、リーヴォーのアエルレドが『聖ニニアンの生涯』を書いた。そこでは、父がキリスト教徒の王だったこと、ローマで司教に任命されたこと、マルティヌスに会ったこと、マルティヌスが送った石工たちが海辺の石の教会を建て、その死を知ったニニアンが教会をマルティヌスにささげたことなどが語られる。ピクト人を教化して帰郷した後に亡くなり、石棺に収められて祭壇の近くに葬られたとも記される。アエルレドは「未開の言語」で書かれた出典も用いたと述べるが、その原典は知られていない。彼はスコットランドの宮廷で10年を過ごし、王家やガロウェイのファーガスと親しかったため、作品は政治的な思惑をもつ聴衆に向けた「神聖な伝記」だったと見られている。
1639年にはジェームズ・アッシャーが、ニニアンはアイルランドへ向かい、そこで亡くなったと論じた。母はスペインの王女で、天から来た鐘が信者を呼び、雄鹿が運んだ角材で木造の教会を建てた、といった話も加えている。432年9月16日という伝統的な命日も、アッシャーの記述に由来するとスキーンは考えた。アッシャーは架空の歴史を作ったと非難されることも多いが、正統な写本を参照できたともされる。ほかに8世紀の作者不詳の『司教ニニアンの奇跡』などもあるが、史実でない記述と見なされている。
ベーダのいうニニアンに当たる人物は、歴史的記録に見つかっていない。ただ、ベーダが根拠なく創作したとは考えにくく、1855年にはトッドが、6世紀のモヴィラの聖フィネンを示唆し、現代の学者の間でも有力視されている。ニニアンにささげられた教会は、ピクト人の古い土地、クライド湾とフォース湾の南岸、オークニー諸島やシェトランド諸島、イングランド北部、さらにアイルランドのドニゴール東部やベルファストにも見られ、その多くは中世に起源をもつ。1932年設立のエディンバラの聖ニニアン・聖トリドゥアナ教会も、彼にささげられたカトリック教会である。
同じ年に亡くなった人物
- ケレスティヌス1世 (ローマ教皇) (432年没)
- アテナイのプルタルコス (432年)
- ボニファティウス (432年)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ロウドン・マカダム (1836年没)
- ロバート・バーンズ (1796年没)
- ルーマー・ゴッデン (1998年没)
- ウィリアム・マクマスター・マードック (タイタニック号事故の犠牲者)