HISTORICAL PERSON · 2019年没

イオ・ミン・ペイ

中国系アメリカ人の建築家。ルーヴル美術館のガラスのピラミッドを設計した建築家として広く知られる。

生涯
2019年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
中華人民共和国(広州市)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

イオ・ミン・ペイ(I・M・ペイ)は、1917年4月26日に生まれ、2019年5月16日に没した中国系アメリカ人の建築家である。漢名は貝聿銘。パリのルーヴル美術館のガラスのピラミッドを設計した人物として広く知られる。

広州で、銀行員で後に中国銀行の頭取を務めた父と母の間に生まれた。ペイ家は蘇州で代々続く裕福な家柄だった。生まれて間もない1918年、孫文政権から父の勤める銀行に資金援助の要請が来たが、支店長だった父はこれを断って身の危険にさらされ、一家は当時イギリス領だった香港へ逃れた。のち家族は父の勤務地である上海に移り、フランス租界で暮らして欧米の文化に親しんだ。一方、母の死後は祖父を通じて中国の伝統文化にも触れ、東洋と西洋の二つの文化の間で少年時代を過ごした。夏を過ごした蘇州の庭園も、後に語るほど強い印象を残したとされる。

1935年、17歳で渡米してペンシルベニア大学の建築学科に入ったが、古典的な建築教育と人種差別に嫌気がさして退学し、マサチューセッツ工科大学に移った。初めは工学を専攻したものの、才能を見抜いた学部長に強く勧められて建築に戻った。在学中はル・コルビュジェとフランク・ロイド・ライトに大きな影響を受けた。1940年に卒業したが、欧州留学は第二次世界大戦のため断念し、製図工の職を得た。1942年に中国人のアイリーン・ルーと結婚し、ハーバード大学大学院に入ったが、すぐに休学して戦時の国防調査委員会に勤めた。戦後の1945年に復学し、ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤーの下でモダニズム建築を学んで、1946年に建築学修士号を得た。

その後はグロピウスの設計事務所に勤め、同大学の助教授となった。2年ほどたった1948年、不動産開発業者ウィリアム・ゼッケンドルフの招きで、ニューヨークのウェッブ&ナップ社に企業内建築家として入った。不動産の知識を得たいペイには好機であると同時に、大学での約束された地位を捨てる賭けでもあった。ここで多くの部下を抱える建築部門の代表となり、都市再開発を数多く手がけた。1954年にアメリカ国籍を取得し、1960年まで同社で働いたのち、1965年にI.M.ペイ&パートナーズをニューヨークに設立した。事務所設立の年は1955年ともいわれる。

独立後の作品には、アメリカ大気研究センター、ナショナル・ギャラリー東館、ジョン・F・ケネディ図書館、香山飯店、中国銀行香港支店ビル、ロックの殿堂、滋賀県のミホ美術館、蘇州博物館、ドーハのイスラム芸術美術館などがある。1989年に完成したルーヴルのピラミッドは、建設前に論争を呼んだとされる。石やコンクリート、ガラス、鉄を用いた、シャープで幾何学的な大規模建築で知られ、「幾何学の魔術師」とも呼ばれた。1979年にアメリカ建築家協会の金賞、1983年にプリツカー賞を受け、1989年には第1回のプレミアム・インペリアーレ建築部門も受賞したとされる。1975年には初めて中国に戻って香山飯店の設計を手がけ、その15年後に中国銀行香港支店ビルを設計したとされる。同じ1989年に事務所名をペイ・コブ・フリード&パートナーズに改め、代表を退いて、自ら選んだ小規模な仕事に専念した。1994年には同済大学から名誉博士号を贈られた。2019年5月16日、ニューヨーク州の自宅で102歳で死去した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物