HISTORICAL PERSON · 2019年没

ゴードン・バンクス

イングランドのサッカーのゴールキーパー。レスター・シティなどで活躍し、1972年に自動車事故で右目を失明して引退を余儀なくされた。

生涯
2019年没
死亡地
イギリス連邦(ストーク=オン=トレント)
出生地
イギリス連邦(シェフィールド)
出典
世界地図
イギリス連邦(ストーク=オン=トレント)

伝記

ゴードン・バンクスは、1937年12月30日にイングランドのシェフィールドで生まれたサッカー選手である。ポジションはゴールキーパーで、のちにイングランド代表の正ゴールキーパーとして知られた。なお、生年月日は12月20日ともいわれる。

労働者階級の地区で育ち、父が賭け屋の店を営んだことで一家は豊かさと不幸の両方を経験した。障害のあった兄が店の売上をねらう者に襲われ、数週間後に負傷がもとで亡くなったという。バンクスは1952年12月、15歳で学校を離れ、石炭販売所の倉庫係として働いた。この仕事が頑健な体をつくったとされる。アマチュアのチームで、正ゴールキーパーが欠場した試合に代わって出場したことから、ゴールキーパーの道が開けた。その後チェスターフィールドのスカウトの目にとまり、少年チームの試合に出る契約を得て、のちにパートタイムの契約を結んだ。1953年7月に監督のテディ・デイヴィソンから示された契約は週給3ポンドだった。1954-55シーズンのチェスターフィールドは3勝しか挙げられず最下位に終わり、バンクスは多くの失点を重ねた。兵役ではドイツに駐留し、所属した連隊のチームでラインカップを制した。1956年にはチェスターフィールドの少年チームがFAユースカップ決勝に進んだが、ボビー・チャールトンらのいるマンチェスター・ユナイテッドに敗れた。1958年11月にトップチームで初出場し、専任のゴールキーパーコーチがいないなか失敗から学び、守備陣に声で指示を出す方法を身につけた。1959年にはレスター・シティへ移籍した。移籍金は7,000ポンドで、週給は15ポンドになったという。

レスターでは1964年にリーグカップ優勝を果たし、ほかにも複数の決勝を戦った。1963年4月6日のスコットランド戦で代表デビューを飾り、1966年のワールドカップ・イングランド大会では、グループリーグから準々決勝のアルゼンチン戦まで無失点を続けた。準決勝のポルトガル戦で後半37分にエウゼビオに決められるまで、無失点は443分に及んだ。大会を通じた失点は3で、母国開催での優勝に貢献した。その後ストーク・シティに移り、1971-1972シーズンにはリーグカップでPKを止めるなどの好セーブを重ね、同クラブに初の栄冠をもたらした。この年にはFWA年間最優秀選手にも選ばれた。

1970年のメキシコ大会、1次リーグのブラジル戦では、前半18分にジャイルジーニョのセンタリングからペレがフリーで頭で叩き込んだかに見えたが、バンクスはゴール寸前でボールを弾き出した。ペレはのちにこのプレーを、自分が見た中で最高のセーブと評している。

1972年10月22日、自動車事故でフロントガラスの破片が右目に刺さって失明し、引退を余儀なくされた。熱心なファンが目の提供を申し出たが、これは断ったという。1975年にアメリカで再起を図ったが以前の輝きは戻らず、1977年にキャリアを終えた。1979年にはAFCテルフォード・ユナイテッドの監督に就任し、2000年2月には古巣ストーク・シティの会長となった。

20世紀世界最優秀ゴールキーパーの第2位(国際サッカー歴史統計連盟、1999年)に選ばれ、2002年にはイングランドサッカー殿堂入りを果たした。2004年3月には、国際サッカー連盟の創立100周年にあたってペレが選んだ偉大なサッカー選手125人にも名を連ねた。2015年に腎臓がんで闘病中と報じられ、2019年2月12日に亡くなった。

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