伝記
中曽根康弘は、1918年(大正7年)5月27日に群馬県高崎市で生まれ、2019年(令和元年)11月29日に没した政治家である。1982年から1987年まで内閣総理大臣を務めた。生家は関東有数の材木問屋で、材木商の中曽根松五郎の二男として生まれた。高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、内務省に入った。
海軍の短期現役制度に応募し、1941年に海軍主計中尉となった。呉の鎮守府で第二設営隊の主計長に任じられ、工員たちとともに輸送船団でフィリピンのダバオ、ボルネオ島のバリクパパンへ向かった。船団には前科のある者も含まれ、統率に苦心したという。1942年1月24日のバリクパパン沖海戦では周囲の輸送船が沈められ、乗っていた船も炎上して、班長を含む23人が戦死した。戦後の総理大臣のなかで、間近に部下の戦死を目の当たりにしたただ一人といわれる。その後も主計科士官として従軍し、1945年9月に主計少佐に進んだ。同年2月には蔦子と結婚している。復員後は内務省に戻り、官房調査部でアメリカ軍との折衝を担当した。アメリカ流の民主主義に触れる一方、占領された無念さを抱いたことが政治家を志す原点になったという。
退官後の1947年の衆議院議員選挙では白塗りの自転車に日の丸を立てて運動したことが知られ、初当選した。以後は連続20回当選を重ねた。保守合同までは民主党、改進党などに属し、反吉田茂の立場から自主憲法制定や再軍備を唱え、「青年将校」と呼ばれた。1956年の日ソ共同宣言の批准では賛成討論に立ったが、ソ連への厳しい批判を述べたため、約50分の演説全文が議事録から削除される異例の事態となった。1954年には議員の身で原子力研究開発の予算を提出し、通過させた。保守合同後は河野一郎の派に属し、1959年の岸信介内閣で科学技術庁長官として初入閣した。河野の死去後は自らの派閥を率いた。佐藤栄作内閣では運輸大臣や防衛庁長官を務めたが、それまで佐藤内閣を批判していたため「風見鶏」と揶揄された。本人は、佐藤が沖縄返還を目指していたので協力したと説明している。1972年の総裁選では田中角栄を支持し、田中内閣で通商産業大臣となった。1976年にはロッキード事件で党幹事長を辞任した。鈴木善幸内閣では行政管理庁長官を務め、1982年11月の総裁選に圧勝して第71代の内閣総理大臣に就任した。
首相としては「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄、電電公社、専売公社を民営化してJR、NTT、JTを生み、日本航空の民営化も達成した。アメリカのレーガン大統領とは「ロン・ヤス」と呼ばれる信頼関係を築き、日米安全保障体制の強化に努めた。首相在職日数は1806日で、戦後5番目である。1985年の国会答弁では、太平洋戦争を「やるべからざる戦争であり間違った戦争である」と述べた。首相公選制を唱え、憲法改正を悲願とした。2003年、小泉純一郎首相から比例代表候補の73歳定年制を理由に引退を求められ、当初は反発したものの受け入れて引退した。その後も憲法改正などで発言を続けた。2018年5月27日に満100歳を迎え、現行憲法下で首相に就任した人物としては初の100歳となった。2019年11月29日に満101歳(享年102)で死去し、葬儀は新型コロナウイルスの流行で延期され、2020年10月17日に合同葬として行われた。
同じ年に亡くなった人物
- キャロル・チャニング (2019年没)
- ミゲル・レオン=ポルティーヤ (2019年没)
- ポール・レイモンド (ミュージシャン) (2019年没)
- D・A・ペネベイカー (2019年没)
- Barbara Perry (2019年没)