HISTORICAL PERSON · 2019年没

フランコ・ゼフィレッリ

イタリアの映画監督・オペラ演出家。フィレンツェ出身で、婚外子として生まれた。映画、舞台、政治の分野で活動した。

生涯
2019年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

フランコ・ゼッフィレッリは、1923年2月12日にイタリアのフィレンツェ近郊で生まれ、2019年6月15日に没した映画監督、脚本家、オペラ演出家であり、政治家でもあった。戦後を代表するオペラと演劇の演出家のひとりで、古典作品を豪華絢爛に舞台化したことで称賛と悪評の両方を受けた。

出生は、ともに別の相手と婚姻中だった男女の情事によるもので、当時の法律では両親どちらの姓も名乗れなかった。母は、モーツァルトのオペラ『イドメネオ』のアリアにある「やさしくそよ吹く風」にちなんで子の姓を考えたが、役所の誤記によってゼッフィレッリとなったという。母の職業はお針子とも服飾デザイナーともいわれ、父も服のセールスマンとも、ヴィンチ出身の羊毛と絹の商人ともいわれる。6歳のときに母を亡くし、フィレンツェに住むイギリス人の上流階級のコミュニティのもとで育った。そのため英語が堪能で、第二次世界大戦中は無党派の立場で、イタリアの抵抗運動に加わったのち、イギリス軍の兵士と出会って通訳を務めたとされる。1941年にフィレンツェの美術アカデミーを卒業し、父の助言で大学に進んで美術と建築を学んだ。戦後に復学したが、1945年にローレンス・オリヴィエの映画『ヘンリー五世』を見て、演劇へ関心を向けた。

舞台美術家のもとで働くうちにルキノ・ヴィスコンティを紹介され、1948年公開の『揺れる大地』の助監督に雇われた。ヴィスコンティの手法は後年の仕事に深い影響を与えたという。ヴィスコンティのスタッフとして主に美術と装置を担当し、ほかにもヴィットリオ・デ・シーカやロベルト・ロッセリーニのもとで働いた。1960年代にはロンドンやニューヨークで自ら装置と演出を手がけて名を上げ、その手法を映画へ移した。

初の監督作は1967年の『じゃじゃ馬ならし』で、エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが出演した。編集中にフィレンツェが洪水に見舞われると、約1か月後に資金集めのための短い記録映画を発表している。翌1968年の『ロミオとジュリエット』では、原作に忠実にオリビア・ハッセーら十代の役者を主役に起用して世間を驚かせ、シェイクスピアの映画化としては最高のヒットを記録し、アカデミー監督賞にノミネートされた。1972年の『ブラザー・サン シスター・ムーン』は聖フランチェスコの若い日々に焦点を当て、1977年のテレビ作品『ナザレのイエス』も高い評価を得た。続いて『チャンプ』や『エンドレス・ラブ』を撮り、1980年代にはオペラの映画化に取り組んだ。1990年には『ハムレット』でメル・ギブソンを主役に据え、1996年の『ジェイン・エア』は批評家に好評だった。無名の俳優を主要な役に使うことも多かった。

オペラ演出を活動の中心とし、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、メトロポリタン歌劇場、ロイヤル・オペラ・ハウスなどで演出した。ヴェルディやプッチーニの作品がよく知られ、メトロポリタンでは1964年の『ファルスタッフ』でデビューした。読み替え演出が盛んな時代にあって保守的で、大がかりな装置や大勢の人や動物を舞台に詰め込む演出は、評論家から酷評されがちだった。1994年から2001年までシチリアのカターニア選出の上院議員を務め、2004年にはイギリスから名誉ナイトの称号を受けた。同性愛者であることを公にしていた。2016年には、レオナルド・ダ・ヴィンチの存命する血縁者の中に彼が含まれるとの研究が発表された。2019年6月15日、ローマの自宅で死去した。

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