HISTORICAL PERSON · 2019年没

ジャック・シラク

フランスの政治家。首相を二度務めたのち、第22代大統領に就任した。若い頃から行動力が旺盛で「ブルドーザー」の異名を持った。

生涯
2019年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 6区)
出生地
フランス共和国(Q117662853)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャック・シラクは、1932年11月29日にパリで生まれ、2019年9月26日に没したフランスの政治家である。首相を二度務め、第22代大統領となった。父は銀行員で、のちに飛行機会社の役員になった。中学から高校の時期には4校に在籍し、バカロレアを取得して1954年にパリ政治学院を卒業した。在学中にはハーバード大学のサマースクールに留学している。1950年代にはフランス共産党員で、ストックホルム・アピールに署名したこともあった。1956年に召集されて将校としてアルジェリア戦争に従軍し、負傷した。

1959年に国立行政学院を卒業して国家公務員となり、会計検査官を務めたのち、ジョルジュ・ポンピドゥー首相の官房に入って庇護を得、急速に出世した。旺盛な行動力から「ブルドーザー」の異名で呼ばれ、同じ官房にいたエドアール・バラデュールとは「動のシラク、静のバラデュール」と並び称された。1967年にポンピドゥーの勧めで国民議会議員選挙に出て当選し、社会問題相として初入閣した。1972年に農相、1974年に内務大臣を務め、同年5月からはジスカール・デスタン大統領の下で首相となった。1976年には共和国連合を創設して総裁に就き、1986年に再び首相に返り咲いた。1977年から1995年まで長くパリ市長を務め、その間の1981年と1988年の大統領選ではいずれもミッテランに敗れた。

1995年5月の大統領選で社会党のジョスパンを下し、エリゼ宮の主となった。就任直後には南太平洋のムルロア環礁で核実験を行い、世界的な非難を浴びた。同年7月には、第二次世界大戦中のフランス警察によるユダヤ人大量検挙事件について、国家の誤りを初めて認める演説をし、国民の多数が支持した。2002年に再選され、2003年のイラク戦争にはドイツやロシアとともに反対したが、開戦までは米国との協調も探っていたため、米仏関係は極度に悪化した。欧州統合を急いだものの、2005年の国民投票で欧州憲法が否決され、これが最大の政治的失点とされる。同年秋にはパリ郊外で暴動が起こり、2006年には若者向けの雇用契約をめぐる反対運動で撤回を余儀なくされ、支持率は29パーセントにまで落ちた。2007年2月に引退を表明し、同年5月16日に退任した。

退任後は職員の架空雇用疑惑で2009年に起訴され、2011年12月に執行猶予付き禁錮2年の有罪判決を受けた。第五共和制下で大統領経験者が刑事事件で訴追されたのは初めてであった。一方で、持続可能な開発や文化間の対話を掲げ、水や医薬品へのアクセス、森林破壊や砂漠化への対策などを助成分野とするシラク財団を設立して理事長を務め、2009年には紛争予防賞の第1回授与式を行った。2009年4月の週刊誌の人気調査では、現職のサルコジの41パーセントに対し74パーセントの好感度で1位となり、同年3月にはオバマ大統領から任期中の助言や協力を求める書簡が届いたと報じられた。2011年にはアルツハイマー病を患っていると報じられ、公の場にほとんど姿を見せないまま亡くなった。

飾らない庶民派として知られ、仔牛の頭やビールを好んだ。日本文化にも造詣が深く、『万葉集』を読み、日本古美術を収集し、愛犬に「スモウ」と名づけるほど大相撲を好んだ。ミッテランは彼を「自分が何故回っているのかも知らずに回り続けるコマのような人間」と評しつつ、その力量は認めていた。

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