伝記
シヴァージー・ボーンスレーは、1627年4月6日に生まれ、1680年4月3日に没したマラーターの指導者で、マラーター王国を創始した初代国王(在位1674年6月6日〜1680年)である。君主号チャトラパティを付けてチャトラパティ・シヴァージーとも呼ばれ、日本語ではシバジと表記されることもある。ビジャープル王国、ゴールコンダ王国、ムガル帝国といったイスラーム王朝に対抗し、デカンにヒンドゥー王朝を復興してその結束を図った。
アフマドナガル王国に仕えるマラーターの軍人シャハージーの子として、デカンのシヴネーリーで生まれた。当時この王国はムガル帝国の圧力にさらされ、1633年に首都ダウラターバードを落とされた。シャハージーは幼王を擁して抵抗を続けたが、1636年に敗れ、アフマドナガル王国を支えていたビジャープル王国へ亡命して、プネーとその近郊マーヴァルに領地を与えられ、首都の宮廷に出仕した。母ジジャー・バーイーは学識ある教育者で、息子にマハーバーラタとラーマーヤナの二大叙事詩を教え、のちのシヴァージーに大きな影響を与えたといわれる。物心ついた頃から母のもとを離れて冒険を好み、コンカン地方も旅して、マラーターの結束を掲げる自分の思想に共感する若者たちと出会い、多くの仲間を得たという。
1644年以降、シヴァージーはビジャープル王国からの独立を試み、トールナーの城塞を奪ったのを手始めに、知略を用いて次々と城塞を落とし、コンカン地方の制圧に乗り出した。1648年に父シャハージーが王国に逮捕されても動きをやめず、1653年にジャオーリーを獲得して、コンカンの大部分を征服した。1659年、王国が2万を超す兵とアフザル・ハーンを送ってくると、プラタープガド城の包囲のなか、降伏するそぶりで面会に臨み、抱擁するふりをして暗器でアフザル・ハーンを殺害し、混乱した敵軍を突き崩した。同年12月にはコールハープルでも王国軍を破り、以後、王国は大規模な軍を送らなくなった。
ムガル帝国とも敵対し、1660年にはアウラングゼーブの命で叔父シャーイスタ・ハーンが討伐に向かったが、シヴァージーはマラーター農民を軍事的に組織し、軽騎兵による機動的な戦法で重装備のムガル軍を翻弄した。1663年にはプネーでシャーイスタ・ハーンを奇襲し、1664年には騎兵4,000でスーラトを略奪して、1,000万ルピーの戦利品を得た。しかし帝国軍随一の将軍ジャイ・シングが派遣されると、プランダル城を包囲されて、1665年にプランダル条約を結び、事実上降伏した。1666年にはアーグラでアウラングゼーブに謁見したが、侮辱的な扱いを受け、低い位階を与えられたことに激怒して、息子サンバージーとともに事実上監禁された。彼は仮病を使い、菓子を贈り続けて監視を緩ませ、8月18日に2つの洗濯籠に隠れて脱出した。
帰国後は農作物での徴税など領内の改革に取り組み、1668年にはアウラングゼーブと和解して「ラージャ」の称号を得た。だが1669年にヒンドゥー寺院の破壊命令が出されると、1670年にムガル領への襲撃を再開し、スーラトを再び襲って650万ルピーの戦利品を得た。1674年6月6日、ラーイガド城で即位式を行い、マラーター王国の樹立を宣言した。デカンでヒンドゥー王朝が成立したのは3世紀ぶりであった。その統治はムスリムなど異教徒も平等に共存する国家であったと記される。
同じ年に亡くなった人物
- フランス・ポスト (1680年没)
- 小ペル・ブラヘ (1680年)
- エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680) (1680年没)
- ジョーゼフ・グランヴィル (1680年)
- ヤン・スワンメルダム (1680年没)
同じ地域に関係する人物
- アブル・ハサン・クトゥブ・シャー (1699年没)
- ラグナート・ラーオ (1783年没)
- ダラ・シン (2012年没)
- バール・ガンガーダル・ティラク (1920年没)
- バルラージ・サーヘニー (1973年没)