伝記
ヤン・ステーンは、17世紀のオランダ黄金時代に活躍した画家である。1626年ごろライデンに生まれ、1679年に同地で亡くなった。静物画、肖像画、歴史画、宗教画など様々なジャンルの作品を約800点手がけたが、とりわけ有名なのは庶民の暮らしを描いた風俗画である。酔っ払った人々の乱痴気騒ぎ、結婚式、ピクニック、意地悪をされて泣く子供の姿などをユーモラスに描き、教訓的な寓話や諺を題材にすることも多かった。
ライデンで生まれたステーンの両親は、穀物商で醸造業を営む父ハーヴィック・ステーンと母エリザベト・カピテインといい、一家は何世代にもわたってこの町に暮らしていた。家は裕福なカトリックで、ヤンは八人兄弟の長男だったとされる。家族は醸造を営み、二世代にわたって宿屋「赤いハルバード」も経営した。1639年ごろには、同時代のレンブラントと同じくライデンのラテン語学校に通ったと推測される。その後、ユトレヒトでドイツ生まれの画家ニコラウス・クニュプファーのもとで絵を学んだとされ、田舎の暮らしを描いたハールレムの画家アドリアーン・ファン・オスターデの影響も受けたと思われるが、実際に交流があったかどうかは分かっていない。
1646年にはライデン大学に在籍したという記録がある。1648年、ハブリエル・メツーとともにライデンに聖ルカ組合を組織した。風景画家ヤン・ファン・ホイエンの助手となってハーグへ移り、1649年10月3日にホイエンの娘マルグリットと結婚した。ステーンは義父のもとで1654年まで働いたのちデルフトへ移り、「蛇」などの名で知られる醸造所を経営したが、あまり成功しなかった。同地では大規模な火薬庫の爆発が町の大部分を壊し、地元の経済に打撃を与えていたとされる。1656年から1660年までライデンの北のワルモントに、1660年から1670年まではハールレムに暮らして多くの作品を描いた。ハールレムでは作風がしだいに大がかりで自由なものとなり、主題も野心的になって、乱れた場面に教訓の視点を込めたという。
妻の死の翌年で父が亡くなった1670年にライデンへ戻り、以後はそこにとどまった。1672年の災いの年に絵画市場が冷え込んだため、宿屋を開いた。別の居酒屋「平和」の営業許可も得たとされる。1673年ごろには再婚し、1674年には聖ルカ組合の代表に就いた。1679年にライデンで没し、遺体は聖ピーテル教会の家族の墓所に葬られたとされる。
作品の多くは混乱と好色さと言ってよいほどの生き生きした空気に満ちており、「ステーンの一家」という言葉が散らかった場面を表すオランダの諺になっている。ただし、騒ぎに加わるよう勧めているというより、むしろ警告の意味で描いたのではないかと考えられる。自分や家族をモデルにすることも多かった。子供の描写や光の扱い、布地の質感を丁寧に描く点も評価されている。同時代にも評価され、かなり良い収入を得たといい、娘のひとりは海洋画家ポルセリスと結婚した。現存する作品は350点ほどで、弟子は多くなかったが、作品は多くの画家に影響を与えた。主な作品に『怠け者』『贅沢に気をつけよ』『聖ニコラウスのお祭り』『親に倣って子も歌う』などがある。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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