HISTORICAL PERSON · 422年没

劉裕

南朝宋の初代皇帝。桓玄打倒を契機に地位を築き、南燕や後秦を滅ぼし、孫恩の乱など内乱を鎮圧した。政敵を倒して恭帝から禅譲を受け、土断などで財政も再建したが、安帝・恭帝の暗殺は批判を受けた。

生涯
422年没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 南京市)
出生地
中華人民共和国(京口区)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

劉裕は、南朝宋の初代皇帝である。363年、徐州彭城郡の出身の家に、劉翹と趙安宗の長男として生まれた。実際に住んでいたのは京口の里である。父は下級役人で、生母は産後に亡くなり、困窮した家では乳母を雇う金もなく、養育を放棄されかけたこともあった。見かねた母の姉の趙氏が乳を与えたことから、寄奴という幼名がついたという。父もまだ幼いうちに亡くなり、劉裕はわずかな田を耕し、草履を売って暮らした。成長すると身長七尺六寸の立派な体格となり、大志を抱いて細かな礼節にこだわらなかったが、継母によく仕える孝行息子として評判だったとされる。ただし敵国で書かれた史書は、劉裕を博打で財産を失った無頼の者として描いている。若い頃には京口の大地主の刁逵から3万銭の借金を負い、琅邪王氏の名士の王謐に肩代わりしてもらった。のちに王謐が桓玄の配下となっても、劉裕はその恩義から罪を問わず、新政権でも重んじた。

399年、五斗米道の信者を中心とする孫恩の乱が起こると、劉裕は北府軍の劉牢之に請われて配下に加わり、わずか数十人の部隊で数千の孫恩軍を破るなど戦功を重ねた。401年に孫恩が再び襲来した際は撤退する敵を海辺まで追い詰めた。他の東晋軍が民衆から略奪するなか、劉裕の隊は軍規が厳正で歓迎されたという。402年に桓玄が建康を制圧すると、寝返ろうとする劉牢之を何無忌とともに諫めたが聞き入れられず、再起を誘われても断った。桓玄が403年に安帝を廃して楚を建てた後、404年2月に劉裕は何無忌・劉毅・諸葛長民らと決起した。軍はわずか1700名であったが桓玄の兵を次々に破り、桓玄は5月に蜀で殺された。劉裕は安帝を復位させ、鎮軍将軍・都督十六州諸軍事となった。

その後、国の周辺では敵が勢力を伸ばしていた。409年に劉裕は南燕征伐を宣言し、反対を押して出兵した。進発して南燕領に入ると、行軍路の穀物が焼かれていないのを見て、天を指して「吾が志は、ここに果たされた」と言ったという。そして翌年2月に首都の広固を落とした。この隙に盧循が北上して何無忌を敗死させたため、劉裕は急ぎ引き返し、石頭城に兵を集めて命令違反者を殺すなど徹底した統制で建康の守りを固め、盧循軍を退け、411年に盧循を討ち果たして太尉に昇った。続いて国内の政敵を排除し、412年に劉毅を討ち、413年には親征せず新進の将軍朱齢石に一任した後蜀攻めが成功し、415年に司馬休之を後秦へ亡命させた。土断を施行するなど、財政の再建にも努めた。

416年、後秦の内紛に乗じて北伐に出た劉裕は、10月に洛陽を落として歴代皇帝の陵墓の修復を果たし、宋公となった。417年8月には長安を陥落させて後秦を滅ぼした。しかし腹心の劉穆之が急死したため、次男の劉義真に長安を任せて引き返した。長安では内紛が起こり、夏の赫連勃勃に襲われて、多くの将軍が戦死し、長安は失われた。

劉裕は419年1月に王韶之に命じて安帝を暗殺し、弟の司馬徳文を恭帝に立てた。そして420年6月に禅譲を受けて皇帝となり、恭帝を零陵王とし、翌年9月に殺害させた。422年6月、建康の西殿で亡くなり、長男の劉義符が即位し、徐羨之・傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。苛烈な粛清や二帝の暗殺、長安と洛陽をすぐに失ったことには批判がある。一方、范曄や裴松之、陶淵明が劉裕に仕え、甥の劉義慶は『世説新語』の撰者である。

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