伝記
キラ・ムラートワは、1934年11月5日にルーマニアのソロカ(現在のモルドバ)で生まれた、ソビエトとウクライナ国籍の映画監督、脚本家、女優である。旧姓はコロトコワで、父はロシア人、母はルーマニア人であり、二人とも活発な共産主義者で共産党員だった。父のユーリ・コロトコフは第二次世界大戦中に反ファシストのゲリラ活動に身を投じたが、ルーマニア軍に逮捕され、尋問を受けて銃殺刑に処された。戦後、婦人科医であった母はキラを連れてブカレストに移り住み、ルーマニア社会主義共和国政府の要職についた。
モスクワで学び、ゲラシモフ映画研究所(現・全ロシア映画大学)で監督を専攻した。1959年に卒業すると、黒海沿岸の港湾都市オデッサに移り、オデッサ映画スタジオで監督として働き始めた。デビュー作は1961年に発表している。1960年代初頭には、同僚の監督オレクサンドル・ムラトフと結婚して数本を共作したが、夫妻は娘のマリアンナが生まれてまもなく離婚した。のちにレニングラードの画家エフゲニー・ゴルベンコと再婚したものの、姓はあらためなかった。1978年には主張の対立によりレニングラードに移り、レンフィルムで映画を1本撮っただけでオデッサに戻っている。
その映画言語は社会主義リアリズムの規範に従わず、特異性が絶えずソビエト当局の批判を買った。映画学者のイサ・ウィリンガーは、その形式をソビエト映画のアバンギャルド、特にエイゼンシュタインのモンタージュと比較している。たびたび監督の仕事を禁じられ、数年単位で映画の現場から締め出されている。最初の二作『短い出会い』(1967年)と『長い別れ』(1971年)は上映を禁じられ、後者が日の目を見たのは1987年だったとされる。1971年からグラスノスチが始まる1985年までに撮った映画は、1979年の作品と1983年の『灰色の石の中で』の二本だけであった。『灰色の石の中で』は検閲で削られ、イワン・シドロフの変名で署名された。
状況が変わったのは「ペレストロイカ」の時期である。1988年にはフランスの国際女性映画祭クレテイユが初めて全作品の回顧上映を催し、『灰色の石の中で』は同年のカンヌ映画祭「ある視点部門」の上映作に選ばれた。『アステニックシンドローム』は1990年のベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞し、1994年にはロカルノ国際映画祭で永年の功績を称える名誉豹賞を授けられ、2000年にはアンドレイ・ワイダ自由賞を贈られた。ただ、脚光を浴びたのはこの期間に限られ、その後は注目されないままだったともいわれる。
1990年代に入ると非常に生産的な時期を迎え、2、3年ごとに長編映画を撮った。作品はつねにウクライナ、またはウクライナとロシアの共同制作で、ロシア語で撮られた。ユーロマイダン抗議運動と、それを継いだ2014年のウクライナ革命を支持している。作品はポストモダンと見なされ、折衷主義とパロディ、不連続な編集、途切れとぎれのナレーション、視覚と音声の強烈な刺激を用いた。ロシアの映画賞は1991年、1995年、2005年、2007年、2009年、2013年に受賞している。2005年にはニューヨークのリンカーン・センターで、2013年にはロッテルダム国際映画祭で回顧上映が行われた。現代ロシア語映画の最も特異な監督として、アレクサンドル・ソクーロフに次いで名が挙がるのがムラートワである。2018年6月6日に没した。
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