伝記
高畑勲は、1935年(昭和10年)10月29日に三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で、高畑浅次郎の三男として生まれたアニメーション監督、映画監督である。父の浅次郎は当時中学校の校長で、戦後は岡山県の教育長となり、のちに同県初の名誉県民にまでなった人物であった。1943年に父が岡山一中の校長となったため岡山市へ転居し、国民学校に転校した。1944年、9歳のときに岡山市で空襲に遭い、姉とともに家族とはぐれて、火の雨と猛火の中を逃げまどい、川のほとりで明け方に冷たい黒い雨に打たれた。これが人生で一番強烈な体験であったと伝えられる。
岡山県立朝日高校を1954年に卒業し、東京大学に入った二人の兄に続いて、自らも東京大学に入学した。上京した大学時代に、1955年に日本公開されたポール・グリモーの映画『やぶにらみの暴君』に衝撃を受けて映画館に通うようになり、これがフランスの詩人・脚本家ジャック・プレヴェールの作品との出会いとなった。フランス文学を志して仏文科を卒業した。のちにプレヴェールの詩集『ことばたち』の日本初の完訳(2004年)や、プレヴェールが脚本を書いた『王と鳥』の字幕翻訳も手がけている。
アニメーション映画の制作に携わると決意し、1959年に東映動画に入社した。演出助手の公募の第一期生だった。テレビアニメ『狼少年ケン』で演出デビューし、大塚康生の推薦で長編『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出に抜擢された。作品はのちに高く評価されたが、予算とスケジュールを大幅に超過し、主要スタッフは責任を負う形で待遇に差を付けられ、興行も不振だった。東映動画では長編の演出を任される見込みが薄いと考え、1971年にAプロダクションへ移り、宮崎駿や小田部羊一にも移籍を説得した。『長くつ下のピッピ』の企画は原作者の許可が下りず頓挫したが、そこで作りかけた世界観は、1972年の『パンダコパンダ』に活用された。『ルパン三世』の第一シリーズの後半も宮崎と手がけた。
その後、ズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移り、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』を演出・監督して、綿密な資料と海外ロケハンに基づく生活芝居中心のリアリズムのアニメを築いた。宮崎や富野喜幸に与えた影響は大きいとされる。1981年に公開された映画『じゃりン子チエ』は制約の多い中で作られたが興行的にも成功し、テレビ版ではチーフディレクターを務めた。同じ頃にオープロダクションの自主制作の『セロ弾きのゴーシュ』の監督も務め、5年を費やして完成させた作品は毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受けた。
宮崎の『風の谷のナウシカ』ではプロデューサーを務め、その資金で福岡県柳川市を撮影した実写作品『柳川堀割物語』を脚本・監督したが、製作費が膨らんで宮崎の資金を使い果たした。この穴を埋める新作として『天空の城ラピュタ』が構想され、高畑は「いっそスタジオを作ってしまいませんか」と提案した。1985年にスタジオジブリが設立され、宮崎に請われて参加したが、経営の役職には就かなかった。1988年に『火垂るの墓』、1991年に『おもひでぽろぽろ』を監督し、その後に『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ となりの山田くん』『かぐや姫の物語』を手がけた。1999年に紫綬褒章、2015年に芸術文化勲章オフィシエを受けた。2018年4月5日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ポール・アンドリュー (2018年没)
- ジェラール・ジュネット (2018年没)
- イレネウス・アイブル=アイベスフェルト (2018年没)
- リッチ・デヴォス (2018年没)
- ソニー・フォーチュン (2018年没)