伝記
ウィレム・コック(愛称ウィム)は、1938年9月29日にオランダ南ホラント州のベルガンバフトで生まれ、2018年10月20日に80歳で亡くなったオランダの政治家である。第48代のオランダ首相を務めた。大工の父ウィレムと母ネールチェ・デ・ヤーヘルの子で、労働党に所属した。
経営学を学んだのち、1961年に、社会主義系の労働組合であるオランダ労働組合連合に入り、組合の指導者としてキャリアを始めた。同連合の議長を務めたあと、カトリック系の労働組合と合併してできたオランダ労働組合連盟でも、初代の議長となり、1986年までその地位にあった。この立場で、賃金の抑制と雇用に関するワッセナール合意の交渉に関わったとされる。1986年の総選挙で下院議員に当選し、同年7月21日、20年にわたって党首を務めたヨープ・デン・アイルが辞任を表明して後継に推したコックは、労働党の党首兼下院の党首に就任して、野党の指導者となった。1989年の総選挙では、労働党が3議席を失ったが、連立の交渉で、キリスト教民主勢力と合意し、ルベルス首相の第3次内閣が成立した。コックはこの内閣で、初めて政権に入り、副首相兼財務大臣を務めた。
1994年の総選挙で、労働党は12議席を失ったが、キリスト教民主勢力は20議席を失ったため、労働党が下院の第1党となった。保守的な自由主義の自由民主国民党と、社会自由主義の民主66との難航した交渉の末に、第1次コック内閣が成立し、コックは1994年8月22日に首相に就任した。この内閣は、1918年以来初めて、キリスト教民主勢力を含まない内閣となり、オランダの政治で画期的なものと考えられた。労働党と自由民主国民党による連立は、「紫連立」と呼ばれる。内閣の最大の目的は雇用の創出で、長く深刻な不況にあったオランダ経済で、市場により大きな影響力が認められ、減税や支出の節約が進められた。ワークシェアリングの導入を推進したことは、「オランダモデル」と呼ばれる。1998年の総選挙でも筆頭候補となり、第2次内閣で首相を続けた。同性婚や安楽死の合法化など、大きな社会改革が行われ、財政赤字も一層減らされた。
首相在任中の2000年2月には、インドネシアに対して、植民地時代のオランダの行為について、謝罪する用意があると表明した。しかし、国内で嵐のような世論の反発に遭い、謝罪は立ち消えになり、元軍人の団体は、独立戦争で犠牲になったオランダ兵への侮辱だと猛反発した。2001年12月に、党首を退き、次の選挙に出ず、首相も続けないと発表した。2002年7月22日、バルケネンデの第1次内閣の発足とともに退任した。63歳で政界から退いたあとは、企業や非営利団体の役員を務め、政府のためにいくつかの委員会や評議会に加わり、欧州連合の統合の推進のためのロビー活動も続け、欧州委員会ではリスボン戦略に関するロビー活動を行った。最晩年まで、政治の問題について、元首相として発言を続けた。2003年4月11日に国務大臣の名誉称号を授けられた。学者や世論の調査では、第二次世界大戦後の最良の首相の一人と評価されている。管理者、交渉者としての能力で知られた。
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