伝記
リス・アシアは、1924年3月3日にスイスのアールガウ州ラッパーズヴィールで生まれた歌手である。出生名はローザ・ミーナ・シェーラーという。11人きょうだいの末っ子で、父フレデリックは水道設備の会社を営み、母ミーナ・ローデルは貴族の出身であった。チューリヒの当時は独立した村だったエルリコンで育った。
幼いころから古典バレエを習い、チューリヒの音楽院と芸術アカデミーでは、ロルフ・リーバーマンらに学んだ。母の反対を押し切って芸術の道に進み、16歳でチューリヒのコルソー劇場にレビューの踊り子として立った。1940年に女性歌手の代役を務めて好評だったのをきっかけに、ダンサーから歌手に転じたとされる。第二次世界大戦が始まるとリヴァ・バレエ団に加わり、フランス軍の部隊の前で踊った。人前で初めて歌ったのは1942年のニースで、その後エディ・ブルーナーの楽団に入り、同じ年にレコード会社に見いだされて最初の録音契約を結んだ。
戦後はバーゼル放送局に雇われ、放送楽団とともにマドリードやパリなど各地を巡演した。1948年には、パリのシャンゼリゼ・クラブのレビューで、病気になった歌手ジョゼフィン・ベイカーの代役を務め、その歌が評判を呼んだため、制作側はそのままシーズンの出演を決めた。1950年には、パウル・ブルクハルトのオペレッタ『花火』から生まれた「オー・マイン・パパ」でドイツの市場を制した。この曲は日本でも、雪村いづみやペギー葉山らがカバーしている。並行して映画にも進出し、十本ほどの作品に出た。長く交際した建築業者のヘンリー・クンツと1957年に結婚したが、クンツは同じ年に亡くなった。
1956年、第1回ユーロビジョン・ソング・コンテストで、ドイツとスイスの両方の国内予選に出場した。ドイツでは「小さな金の指輪」で落選したが、スイスの予選は勝ち抜いた。当時は1か国が2曲を出せたため、ルガーノの本選では、ドイツ語の「古い回転木馬」に続いて、フランス語の「ルフラン」を歌い、優勝した。この回は投票の手順が非公開で、詳しい結果は公表されず、審査員長のリーバーマンが舞台に出て「ルフラン」の優勝を告げただけだった。優勝曲の再演の際、感極まって最初の節で歌をやめ、「とても感激していて。ごめんなさい」とわびてから歌い直し、観客の拍手を浴びたという。
1957年には「私だった子供」で8位、1958年には「ジョルジオ」で2位となった。「ジョルジオ」は、ドイツ語とイタリア語の2言語で歌われた初の曲である。3回続けて出場した歌手は、史上5人しかいない。スイスの歌手として優勝したのは、その後およそ70年間彼女だけだった。ドイツ、オーストリア、スイスで最も引っ張りだこの歌手の一人となり、パリ、ニューヨーク、マドリード、ブエノスアイレスで歌い、英国女王エリザベス2世の前で歌い、ディーン・マーティンやマレーネ・ディートリヒと同じ舞台にも立った。1962年に最後のアルバムを出し、翌年にはチューリヒ駐在のデンマーク総領事で、ホテル・チェーンの持ち主でもあるオスカー・ペデルセンと結婚した。2018年3月24日、チューリヒ州のツォリコーベルクで亡くなった。94歳であった。
同じ年に亡くなった人物
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- ハル・グリア (2018年没)
- クロード・ランズマン (2018年没)
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- ギルマ・ウォルドギオルギス (2018年没)
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