伝記
ヨハネス・フェルメールは、1632年10月31日にデルフトの新教会で洗礼を受け、1675年12月に没したネーデルラント連邦共和国の画家である。本名はヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトで、「ファン・デルフト」は、アムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないよう付けたものとされる。レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家であり、映像のような写実的手法と綿密な空間構成、光による巧みな質感表現を特徴とする。生涯のほとんどを故郷で過ごした。
父レイニエルは絹織物職人を本業に、パブと宿屋も営み、ヨハネス誕生の前年に画家のギルドである聖ルカ組合に画商として登録された。姓はもとフォス(きつねの意)で、のちファン・デル・メールに改めたが、理由は分かっていない。1641年に父はフランドルの町にちなんでメヘレンと名付けた家を購入して移った。1653年4月5日に、カトリックのカタリーナ・ボルネスと結婚した。彼女の母は、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派であることなどから、当初この結婚に反対した。結婚から8か月後に親方画家として聖ルカ組合に登録されたが、師事した人物は不明で、カレル・ファブリティウスとの説にも確証がない。新婚当初はメヘレンで暮らしたが、のちに裕福な義母マーリアのもとで暮らし始めた。夫婦には15人の子が生まれ、4人は夭折した。画業だけで養うのは難しく、義母に頼らざるを得なかったと思われる。
父の死後の1655年に家業を継いでメヘレンを経営し、この収入やパトロン、義母の資産のおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく使えた。同年には、のちに並び称されるピーテル・デ・ホーホが組合に加入し、親密な付き合いが始まった。初期作『マリアとマルタの家のキリスト』に見られるように、初めは物語画家として出発したが、1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転じた。1657年からは、デルフトの醸造業者で投資家である生涯最大のパトロンに恵まれ、彼は作品を20点所持した。この支えにより、年に2、3点という寡作でも問題なかったと考えられる。現存する作品は研究者により32点から37点と少ない。1662年から2年間、1669年からも2年間、聖ルカ組合の理事を務めており、生前から高く評価されていたことがうかがえる。
しかし1670年代、第3次英蘭戦争でオランダは荒れ、経済は低迷し、画風の違う若手画家の台頭もあって人気は落ちた。義母の資産も戦争で減り、戦争の勃発以降、作品は1点も売れなくなったという。大量の負債を抱え、未成年の子を多く抱えたまま、1675年にデルフトで死去した(死因は不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが、正確な死亡日は分かっていない。同郷同年生まれの博物学者アントニ・ファン・レーウェンフックが遺産管財人となった。妻は結局破産し、1687年に56歳で没した。
死後20年以上たった1696年の競売でも高値が付いたが、18世紀に入ると名は急速に忘れられた。19世紀のフランスで写実主義が興ると再び脚光を浴び、1866年にトレ・ビュルガーが論文でフェルメール初の本格的なモノグラフを著した。ただし実際には生前から評価は高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。20世紀にはハン・ファン・メーヘレンによる贋作事件が起き、サルバドール・ダリも深く賞賛した。
同じ年に亡くなった人物
- コルネリス・ノルベルトゥス・ヘイスブレヒツ (1675年)
- シャルル4世 (ロレーヌ公) (1675年没)
- フェオドシア・モローゾヴァ (1675年)
- セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵) (1675年没)
- アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (テュレンヌ子爵) (1675年没)
同じ地域に関係する人物
- ナポレオン・シャルル・ボナパルト (1807年没)
- Charles Pahud de Mortanges (1971年没)
- ディルク・スティッカー (1979年没)
- カスパル・ネッチェル (1684年没)
- トビアス・アッセル (1913年没)