伝記
腆支王は、百済の第18代の王である。先代の阿莘王の長男で、生年は伝わらない。在位は405年から414年とされるが、『三国史記』にもとづく伝統的な年代は405年から420年であり、同時代に近い中国側の記録からは前者のほうが妥当だとする研究者もいる。没年も414年とする説と420年とする説がある。『日本書紀』では直支王、『三国遺事』の王暦では眞支王と記され、中国の史書には百済王夫余腆の名で見える。母は真氏の出で、名は伝わらない。個人の名は慶司とも伝えられる。394年2月、阿莘王の治世の3年目に太子に立てられ、397年に倭国へ赴いた。『三国史記』はこれを人質と記すが、当時の年齢は10代前半の幼年とみられ、軍事支援の要請というよりも、太子を保護するための派遣だったとする見解もある。以後、父の死の知らせを受けるまで、倭国で長く過ごした。
405年9月に阿莘王が亡くなると、次弟の訓解がいったん政治を見て腆支王の帰国を待った。しかし末弟の碟礼が訓解を殺して王位を奪った。倭国でこの知らせを聞いた腆支王は、涙ながらに帰国を応神天皇に願い出た。応神天皇は百人の兵士を護衛につけて送り出し、東韓の地をあらためて与えたとも伝わる。国境に近づくと漢城の人である解忠が現れ、都に軽々しく入らぬよう忠告した。腆支王は倭人の護衛とともに海上の島で待ち、その間に百済の人々が碟礼を殺して腆支王を迎え入れ、王位に就いた。
即位後は王を中心とする権力の集中を進めた。406年に解忠を達率に任じ、407年には庶弟の余信や外戚の解須、解丘らを佐平に任じた。解忠の働きに報いるためか、解氏の者が重く用いられたと推測されており、解須は内法佐平、解丘は兵官佐平になったとも伝わる。こうして王家と真氏との密接な結びつきには終止符が打たれたとされる。408年には初めて上佐平の官を置いて余信をあて、軍事と国政をまとめさせた。王妃の八須夫人は解氏の出とされ、近年の研究では倭人であった可能性が有力視されている。子には後に第19代となる久尓辛王がいる。第20代の毗有王を腆支王の庶子とする説もあるが、久尓辛王の子とする説もあり、確かなことは分からない。
八須夫人を倭人とみる論者は、『三国史記』が397年の記事を「王は倭国と結好し、太子腆支を質とした」と記すことに注目する。百済はすでに近肖古王の時代から倭国と交流があり、阿莘王の時には倭兵が百済を助けて高句麗と戦ったことが好太王碑に見えるため、「結好」は国交の開始ではなく両王家の婚姻を意味するという解釈である。さらに、倭人が「八」の字を名に好んで用いたことも根拠とされる。『日本書紀』には、腆支王の死後、幼い久尓辛王に代わって木満致が政治を行ったとする記事もある。後世には、昆支王が倭国王家の女性と結婚した例も知られる。
対外関係では、406年に東晋へ使節を送ったと『三国史記』にあるが、中国側の史料では確認できない。416年には東晋の安帝から、使持節、都督百済諸軍事、鎮東将軍といった称号を授けられたとされ、このとき王は余映の名で記されている。倭国との同盟関係は治世を通じて続き、409年には応神天皇から、夜でも光る夜明珠が贈られ、王は使者を特別な儀礼で迎えたと伝わる。妹の新斉都媛を応神天皇のもとへ送ったとする記事もある。在位9年で414年3月に没したとされ、長男の久尓辛王が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Nicetas of Remesiana (414年)
- エウナピオス (414年没)
- ヴラムシャプー (414年)
- 僧肇 (414年没)
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