伝記
ハインリヒ・シュッツは、1585年10月8日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では10月18日)に生まれ、1672年11月6日にドレスデンで没したドイツの作曲家で、ドレスデン宮廷楽長を務めた。ドイツ初期バロック音楽を代表し、ヨハン・ヘルマン・シャインやザムエル・シャイトとともに「3S」と呼ばれる。大バッハの生誕のちょうど100年前に生まれ、「ドイツ音楽の父」とも形容される。ドイツ語で「シュッツ」は射手を意味するため、ラテン語で「サギタリウス」とも呼ばれ、出版楽譜にはラテン読みの名が記されたものもある。
テューリンゲンのケストリッツに、宿屋を営むクリストフ・シュッツとユーフロジーネ・ビーガーの長男(8人兄弟の2番目)として生まれ、翌日に聖レオンハルト教会で洗礼を受けた。1590年に家族はワイセンフェルスに移って新しい宿屋を始め、少年時代をここで過ごした。1599年、14歳のとき、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツに音楽の才能を見出されてカッセルの教会学校の歌手となり、ギムナジウムに入った。1607年からはマールブルクで法律を学ぶかたわら、オルガン演奏と作曲の勉強も始めた。
卒業後は方伯の奨学金を得て、1609年にイタリアへ赴き、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院のオルガニスト、ジョヴァンニ・ガブリエリに師事した。1611年には最初の公式曲集『マドリガーレ集第1集』を完成した。死の床にあったガブリエリから指輪を遺贈されており、シュッツが「師匠」と呼んだのは生涯でガブリエリただ一人であったという。ガブリエリは1612年に亡くなった。1613年にドイツへ戻り、カッセルの第2オルガニストに就いたのち、1615年にザクセン選帝侯の宮廷へ移ってドレスデン宮廷楽団の指揮を委ねられた。1617年に宮廷礼拝堂つきの作曲家となり、1621年に同僚のミヒャエル・プレトリウスが死去して以後は、1672年に亡くなるまで楽長の地位にあった。
1619年に『ダビデ詩篇歌集』を刊行して方伯に献呈し、同年にマグダレーナ・ウィルデックと結婚して二人の娘を得た。長女のアンナ・ユスティーナは17歳で亡くなり、次女のユーフロジーネの血筋も孫娘に子がなく絶えたため、シュッツの血統は残らなかった。ドレスデンで最初の10年は楽団の組織づくりに取り組めたが、1618年に三十年戦争が始まり、ドイツ人口の3分の1以上が失われ、文化も徹底的に破壊された。1620年代後半からは楽長の仕事が中断され、後半生は離散した楽団の再編に費やされた。それでも残された作品を見ると、この時期以降に充実した作品が次々と発表されている。1628年には再びヴェネツィアを訪れてモンテヴェルディに師事し、1633年には結婚式の音楽のためコペンハーゲンに招かれ、ドレスデンへ戻ったのは1635年であった。1641年にも再びデンマークに長く滞在している。1627年には、ドイツ初の歌劇とされる『ダフネ』を書いたが、音楽は失われた。
晩年は不幸であったが、受難曲などの作品は円熟して深みを増した。1672年、長く活動したドレスデンで心臓発作を起こし、87年の生涯を閉じた。ヴェネツィア楽派の複合唱様式、コンチェルト様式、通奏低音書法をドイツにもたらし、バッハに至るドイツ・バロック音楽の基礎を築いたと評価される。その業績が広く認識されたのは19世紀後半になってからである。
同じ年に亡くなった人物
- Humasah Sultan (1672年)
- アンヌ・マリー・マルティノッジ (1672年没)
- フランシス・ウィラビイ (1672年没)
- フランシスクス・シルヴィウス (1672年没)
- Marie Guyart (1672年没)
同じ地域に関係する人物
- マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ブランデンブルク=バイロイト (1687年没)
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (1750年没)
- エルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラー (1940年没)
- アドルフ・ストリュムペル (1925年没)
- ヨハン・ゲオルク2世 (ザクセン選帝侯) (1680年没)