伝記
ヨハネス・アモス・コメニウスは、1592年3月28日に生まれ、1670年11月15日に亡くなった教育学者である。本名はヤン・アーモス・コメンスキーといい、コメニウスはラテン語の執筆活動名である。コメンスキーという姓も、生まれた村の名にちなんで本人が後に考え出したものだという。生誕地はニヴニツェ、コムニャ、ウヘルスキー・ブロトなどといわれ、はっきりしない。1604年ごろに両親を亡くし、叔母の家に引き取られたが、1605年にはハンガリーの軍隊がストラージュニッツェを破壊し、親戚の家へ移った。
1608年以降はプシェロフの兄弟教団の学校に学び、1609年ごろにポーランドのソッツィーニ派を知った。1611年にヘルボルンのナッサウ大学、1613年にハイデルベルク大学の神学部で学び、1614年にモラビアへ戻ってプシェロフの学校で教えた。1616年に司祭に叙階された。家族はプロテスタントだったが、1617年以降、ボヘミアに統合されたモラビアでは、プロテスタントを弾圧する混乱が相次いだ。1618年5月23日の第二次プラハ窓外投擲事件で起きた残虐な行為を目にして深く悩み、この狂気から抜け出す道は子どもに与える新しい教育しかないと考えるようになった。
1620年11月、ボヘミアのプロテスタントはビーラ・ホラーの戦いで敗れ、コメニウスは虐殺の現場に居合わせた。1621年から翌年にかけてフルネクから逃れて各地に潜伏し、1622年には妻マグダレナと二人の息子を失った。1624年にドロタ・ツィリロヴァーと再婚し、1627年7月にカトリックだけを国教とする法律が公布されると、長い逃亡生活に入った。1628年、ポーランド西部のレシュノにたどり着き、ギムナジウムの教師となった。以後は故国に戻ることがなかった。
モラビア兄弟団の代表の一人として、教団の教育施設の監督も務め、1632年にプシェロフ兄弟教団の監督に選ばれた。1631年に『開かれた言語の扉』と『教授学』を著し、1630年代以降は汎知学を論じた。三十年戦争とその後の宗教戦争で追われる身でありながら、学校改革の指導者、教育改革の提言者、宗教的な福音の宣教者として、ヨーロッパ中の宮廷や議会から助言を求められた。1641年にイギリスへ渡り、1642年にはフランスのリシュリューの招請を断り、デカルトと会談し、スウェーデンの宰相オクセンシェルナらと議論した。1650年にはハンガリーのシャロシュ・パタクでラテン語学校の改革を委ねられた。
1656年にレシュノが占領されて焼き打ちにあい、オランダへ向かった。1657年にアムステルダムへ移り、『教授学著作全集』を刊行し、1658年にはニュルンベルクで最初の挿絵入り教科書『世界図絵』が出た。これは子どものための世界初の絵入り百科事典とされ、各ページの上に絵、下に説明を置いた。同一年齢で同時に入学し、同じ内容を学ぶ今日の学校のしくみは、彼の構想に発するといわれる。女子にも男子と同様の能力があると主張し、女子教育の必要性を説いた。生涯学習を初めて体系的に語った人物でもある。1670年にアムステルダムで亡くなり、ナールデンの改革教会に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- オノラ・ド・ブイユ・ド・ラカン (1670年)
- Alena Arzamasskaia (1670年)
- ヤーコブ・ファン・ロー (1670年没)
- ニコラ2世 (ロレーヌ公) (1670年没)
- ヴィルヘルム7世 (ヘッセン=カッセル方伯) (1670年没)
同じ地域に関係する人物
- コリーネ・ロッツヘーファ (2020年没)
- ウィレム・デ・ハーン (1855年没)
- アルベルトゥス・セバ (1736年没)
- バレント・ビースフーヴェル (2001年没)
- ヘリー・クネットマン (2004年没)