伝記
エマニュエル・リヴァは、本名をポーレット・ジェルメーヌ・リヴァといい、1927年2月24日にフランス東部ヴォージュ県のシェニメニルで生まれ、レミルモンで育った女優である。舞台と映画の俳優であり、詩人でもあった。塗装職人の父のひとり娘で、父方の祖父は北イタリアのロンバルディアの出だった。学校にいるころから、仕立て屋になる運命のように見えた仕事に満足できず、地元のアマチュア劇団に加わった。地元で『アンティゴーヌ』などの芝居に出て、演技への情熱を急速に深めた。パリの叔母の家に1週間滞在した折には、毎日のように芝居を見て、演劇学校の生徒や教師と知り合った。教師は彼女をパリに残そうとしたが、いったん家族のもとに戻った。
中等教育のあと、2年間、洋裁の工房で働いた。この時期に深刻なうつ状態に悩まされるようになった。新聞で演劇学校の入学試験の記事を読み、両親の意向に逆らって、パリに出て本格的な俳優の道に進むことを決めた。有名な国立音楽演劇学院に入るには年齢が高すぎたため、1953年の春に、演劇センターの試験を受けた。センターの校長との友情から、モーリス・ドノーの教室に入り、ジャン・メイエの授業にも出た。のちに別の教師ルネ・デュピュイが、彼女の喜劇の才能を見つけ、バーナード・ショーの芝居の役を得た。1950年代半ばには、パリの劇場で現代劇に出演し、1957年に初めて古典の役を、ラシーヌの悲劇で演じた。翌年には、映画『大家族』に端役で出演した。
芝居のポスターに載っていた姿が、ドキュメンタリー作家のアラン・レネの目にとまった。声の質に引かれたレネは、長編第1作『二十四時間の情事』(1959年)のヒロインの役を彼女に託した。脚本はマルグリット・デュラスである。フランス人の映画女優と日本人の建築家(岡田英次が演じた)が広島で出会い、短い恋に落ちる物語で、観客にも批評家にも成功を収めた。リヴァは卓越した演技を称えられ、「言葉やひとつひとつの文に意味と優しさを与えた」と評された。1960年にフランスの映画賞の最優秀女優賞を受け、翌年には英国アカデミー賞の外国女優賞にノミネートされた。撮影前の1958年、原爆の投下から13年後、カメラを手に広島の街を歩き回り、復興する暮らしを撮影した。
ジャン=リュック・ゴダールは、のちに彼女を「1959年のジョルジュ・サンドのような人」にたとえた。1962年に、ジョルジュ・フランジュ監督のドラマ『テレーズ・デスケルー』で、ヴェネツィア国際映画祭の女優賞を受けた。2008年11月、広島で撮影した写真が見つかったのをきっかけに、写真集『ヒロシマ1958』が発売され、広島と東京で写真展が開かれた。彼女は50年ぶりに来日し、広島が本当の意味で復興していると実感できたと語った。
2012年のミヒャエル・ハネケ監督の『愛、アムール』で、2度の脳卒中に襲われる80代のピアノ教師を演じ、2013年にセザール賞の主演女優賞を受けた。第85回アカデミー賞でも主演女優賞にノミネートされ、85歳での候補は同賞の史上最年長だった。2017年1月27日、癌のためパリで死去した。
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