HISTORICAL PERSON · 2017年没

チャールズ・マンソン

アメリカのコミューン「マンソン・ファミリー」を率いた犯罪者。ミュージシャンを志し、曲は後年ほかの歌手にもカバーされた。

生涯
2017年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ベーカーズフィールド)
出生地
アメリカ合衆国(シンシナティ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

チャールズ・ミルズ・マンソンは、1934年11月12日にオハイオ州シンシナティで、キャスリーン・マドックスとカール・スコットの間に生まれたアメリカの犯罪者であり、ヒッピーのコミューン「ファミリー」の指導者である。5歳のころ、母とその兄がガソリンスタンドを襲って逮捕され、懲役5年の実刑判決を受けたため、祖父母の家に引き取られた。親戚の家を転々とし、12歳から孤児院で生活した。16歳で救護院に収容されたが、他の収容者に重傷を負わせて少年院に移った。1954年に19歳で仮釈放され、子供が生まれたが、自動車窃盗で逮捕されて離婚した。刑務所での矯正教育で、元ギャングからギターの奏法を習った。さまざまな犯罪で、それまでの人生の半分を矯正施設で過ごした。1967年3月21日に出所し、小銭とギターだけを持って、バスでサンフランシスコへ向かった。

当時のサンフランシスコはヒッピー文化の最盛期で、マンソンは路上音楽活動のかたわら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと知り合い、同棲を始めた。その頃から若い女性たちを集め、1968年にはロサンゼルスのハリウッドで数十人の集団となった。薬物売買、物乞い、クレジットカードの不正利用で生計を立てた。ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンは、ヒッチハイク中のファミリーの少女を乗せた縁でマンソンと親交を持ち、一部を自宅に招いた。紹介された音楽プロデューサーの手でシンガーソングライターとしてデビューする予定だったが、実現しなかった。1968年5月以降は、ロサンゼルスのスパーン牧場に移り、盲目の老人の地権者に雑用と引き換えで住まわせてもらった。

マンソンは、カルマ思想やヒンドゥー教の左道タントラに訴え、「善も悪も存在しない」と語った。黒人が蜂起して白人に戦争を仕掛け、世界を支配するという最終戦争を確信し、その日を「ヘルター・スケルター」と呼んだ。ビートルズの『ホワイト・アルバム』の曲に、その革命と自身が救世主であることが表されていると解釈した。デスヴァレーの地下に通じる穴で終末戦争の間暮らすという幻想に取り憑かれ、ファミリーに備えを呼びかけて、武器や車両を蓄えさせ、射撃訓練に励ませた。

1969年7月、麻薬の売人ゲイリー・ヒンマンの家に、ファミリーの3人と訪れ、金が集まらず、マンソンの命令でヒンマンが刺殺された。壁には黒人解放組織の仕業に見せかけた言葉が書かれた。同年8月9日、マンソンはファミリーの4人に殺人の実行を命じ、ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8か月の女優シャロン・テートらが、自宅で殺された。数日後、同じ手口でスーパーマーケットを経営するラビアンカ夫妻も殺された。10月、逮捕された信者が同房囚に事件を自慢したことが密告されて、実行犯とマンソンが逮捕された。マンソンは取り調べと裁判で殺人の指示を認めず、信者が勝手にやったと主張した。実行犯の女性3人が終身刑となると、自身も1971年4月19日に死刑判決を受けたが、翌1972年にカリフォルニア州の死刑制度が一時的に廃止され、終身刑に減刑された。

獄中では最後まで罪を認めず、反省や謝罪の様子を見せなかった。仮釈放の申請は何度も却下され、2012年にも12回目の申請が却下された。2017年1月には胃腸出血でベーカーズフィールドの病院に緊急入院した。2017年11月19日、同地の病院で急性心筋梗塞により死去した。この事件は映画や音楽にも影響を与え、歌手のマリリン・マンソンは、その名を「悪の象徴」として芸名に用いた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物