伝記
スロボダン・プラリャクは、1945年1月2日、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ南部のチャプリナに生まれた。父ミルコは治安機関に勤めた。のちにクロアチアの国防相となるゴイコ・シュシャクと同じ、シロキ・ブリイェグの高校に通った。1970年にザグレブ大学の電気工学部を優秀な成績で卒業し、1971年にはザグレブ大学人文社会学部で哲学と社会学を修め、1972年にはザグレブ演劇アカデミーを卒業した。紛争以前の1970年代から1980年代には、職業高校の電子工学研究室の責任者や、哲学・社会学の講師を務め、1973年以降は自由業の芸術家として、ザグレブやオシエク、モスタルの劇場で演出家を務めた。テレビドラマ、ドキュメンタリー、映画の監督やプロデューサーもし、映画『カタリナ・コジュルの帰還』(1989年)などを手がけた。
1991年にクロアチア独立戦争が起きると、9月に新設のクロアチア軍に志願した。ザグレブの芸術家や知識人からなる部隊を作ってスーニャに配置し、少将への昇進は1991年とも1992年4月までともされ、国防省で複数の職責を持つようになった。1993年には、ボスニアのクロアチア人勢力であるクロアチア防衛評議会(HVO)に国防省の代表として派遣され、同年7月24日から11月8日まで参謀長を務めた。クロアチア人とボシュニャク人が戦うなか、包囲されたサラエヴォに武器を積んだトラックを送り、ボシュニャク人を助けたり、モスタルへの人道支援の車列を通させたりもした。1995年12月、自ら願い出て軍を退いた。戦後は実業家となり、1995年に弟のゾランと映像制作の会社を設立した。
紛争中の人道に対する罪などの容疑で、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に起訴され、2004年にハーグの法廷に自ら出頭し、このときは仮釈放された。2012年に再び収監され、2013年に、ほかの5人のボスニアのクロアチア人幹部とともに禁固20年の判決を受けた。1993年夏にプロゾールで兵士らがボシュニャク人を次々と拘束していたこと、国際機関への襲撃、モスタルの旧橋やモスクの破壊などを知りながら、本格的な対策をとらなかったとされた。旧橋の破壊の命令を出したとされたが、本人は、破壊の前日に参謀長を辞任していたと主張し、法廷も、橋が正当な軍事目標だったことは認めたが、ボシュニャク人の民間人に過度の被害を与えたと判断した。ドレテリの収容所でも、ボシュニャク人の男性が虐待され、飢えさせられ、殺された者もいた。
2017年11月29日、上訴審で禁固20年が確定すると、「プラリャクは戦争犯罪人ではない。私は法廷の判決を認めない」と述べて、裁判官の制止を無視し、小瓶の液体をあおった。審理は中断され、救急車が呼ばれたが、搬送先の病院で死亡した。オランダの検察庁は、血液から青酸カリが検出されたと発表した。判決から服毒までの様子は、法廷のウェブサイトとバルカン半島で生中継され、世界に衝撃を与えた。出身地のチャプリナでは英雄視され、死後に町の広場で数百本のろうそくで名前が描かれた。ザグレブでは12月11日に、約2000人が参加して彼を称える式典が開かれた。クロアチアの大統領は、同胞がボスニアで犯した罪を認めるべきだと述べる一方、国民は彼の死を深く悲しんでいると語った。
同じ年に亡くなった人物
- ダビット・ポワソン (2017年没)
- ハリー・ディーン・スタントン (2017年没)
- 谷口ジロー (2017年没)
- J・P・ドンレヴィー (2017年没)
- リル・ピープ (2017年没)
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- イサーク・イスラエルス (1934年没)
- コルネリス・エンゲブレフツゾーン (1527年没)
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