伝記
羽田孜は、1935年(昭和10年)8月24日、のちに衆議院議員となる羽田武嗣郎の長男として、東京都大田区蒲田の母方の伯父の家で生まれた。母としは、長野電鉄の創立者の娘であった。仲人も名付け親も、東北帝国大学の阿部次郎で、「孜孜として働く」という言葉から孜と名付けられた。1937年に父が衆議院議員に初当選すると、岩波書店の創立者岩波茂雄の手を借りて羽田書店という出版社を開いた。1944年、空襲の激化にともなって長野県上田市に疎開した。戦後に父が公職追放されたため、上田市で新聞事業などを始めた。上田第二中学校、成城学園高校を経て、成城大学経済学部に進み、在学中には、ハンガリー動乱で日本に亡命したハンガリー人学生を留学生として受け入れる活動をした。1958年に卒業し、新聞記者もサッポロビールへの入社も叶わず、父のつてで小田急バスに入社した。観光課の企画で修学旅行や皇族の旅行も手がけ、労働組合の厚生部長や監査も務めた。1965年に津下綱平の長女の綏子と結婚し、二人の息子をもうけた。
父が体調の悪化から1966年に政界引退を決めたが、後継者が見つからず、1967年の総選挙に父は再び出馬して当選した。羽田も父も世襲には否定的だったが、後援会の説得で武嗣郎が考えを改め、羽田自身も1968年の夏に立候補の意欲を固めた。1968年10月に小田急バスを退社し、総選挙までに選挙区の2万軒ほどを訪ね歩いた。1969年12月の総選挙で、旧長野2区から自民党公認で初当選した。同期には小沢一郎、梶山静六、渡部恒三、森喜朗らがいた。田中角栄の世話になったことから佐藤派に入り、のちに田中派に属した。初めは郵政に関わり、1976年に農林政務次官を務めたのを機に、農政に進んだ。1985年に竹下登の創政会に加わり、同年12月の第2次中曽根内閣で農林水産大臣として初入閣した。竹下内閣でも農林水産大臣となり、米と煙草の自由化をめぐる米国との交渉でワシントンを訪れて、米は先送りとした。宮澤内閣では大蔵大臣を務めた。リクルート事件のあとは、小沢に説得されて自民党の選挙制度調査会長となり、政治改革に取り組み、「改革トリオ」と呼ばれた。
1992年に東京佐川急便事件で竹下派が分裂すると、小沢とともに羽田派を立ち上げた。1993年6月の宮澤内閣の不信任決議案に賛成して自民党を集団で離党し、新生党を結成して党首となった。同年の細川内閣では連立与党として、副総理と外務大臣を務めた。1994年に細川が辞任すると、第80代の内閣総理大臣に就任した。しかし社会党が連立を離脱して少数与党となり、在職64日で総辞職した。のちに新進党、太陽党、民政党を経て、1998年に民主党の結成に加わり、初代幹事長を務めた。1969年から衆議院議員を14期務めたが、健康状態の悪化で2012年12月の解散をもって政界を引退し、2017年8月28日に老衰で亡くなった。選挙制度改革に取り組んだことから「ミスター政治改革」と呼ばれ、温厚で調整型の人物として知られた。一方で、小沢との組み合わせは「二重権力」と批判され、羽田内閣は目立った実績を残せなかった。
同じ年に亡くなった人物
- フランク・ヴィンセント (2017年没)
- オマル・アブドッラフマーン (テロリスト) (2017年没)
- 中島春雄 (2017年没)
- ヴラジーミル・ペトロフ (アイスホッケー) (2017年没)
- ジュリオ・オスカー・メチョソ (2017年没)