伝記
ヤナ・ノボトナは、1968年10月2日にチェコスロバキアのブルノで生まれた女子プロテニス選手である。サービス・アンド・ボレーを得意とし、ネットプレーと片手打ちのバックハンドのスライスにも優れていた。女子選手にはしだいに珍しくなったこの型で戦った。1987年2月にプロ入りし、初めはダブルスの成功で知られた。シングルスで頭角を現したのは、1990年代初めに四大大会シングルス4勝のハナ・マンドリコバをコーチに迎えてからで、コーチ関係は9年続いた。
1990年の全仏オープンでは、第4シードのガブリエラ・サバティーニを4回戦で破り、準々決勝でも逆転勝ちして準決勝に進んだが、シュテフィ・グラフに敗れた。1991年の全豪オープンでは、それまで10戦全敗だったグラフに準々決勝で5-7、6-4、8-6の逆転勝ちを収めた。決勝まで進んだが、17歳の新星モニカ・セレシュに7-5、3-6、1-6で逆転負けしている。1993年のウィンブルドン選手権では、準々決勝でサバティーニ、準決勝でマルチナ・ナブラチロワを破って決勝に進んだ。決勝の相手はグラフで、最終セットの4-1の第6ゲームでゲームポイントまで追い詰めたが、優勝を意識してプレーが硬くなり、ダブルフォールトなどのミスを重ねて5ゲームを連取され、6-4で敗れた。表彰式で涙にくれ、ケント公爵夫人の肩にすがって泣いたことは、長く語り草になった。勝負どころでの精神的な弱さが課題と言われ続け、1997年の決勝でも当時16歳9か月のマルチナ・ヒンギスに6-2、3-6、3-6で敗れた。
しかし1998年に3度目の挑戦で宿願を果たし、フランスのナタリー・トージアを6-4、7-6のストレートで破って、ウィンブルドンの優勝者となった。自己最高ランキングはシングルス2位(1997年7月)、ダブルス1位で、ダブルスで1位にいた期間は67週にのぼる。ツアー通算ではシングルスで24勝、ダブルスで76勝を挙げた。ダブルスの名手としても知られ、様々な選手と組んで四大大会すべてでタイトルを獲得し、女子ダブルスの優勝は12回、混合ダブルスは4回にのぼる。1989年から1990年にはヘレナ・スコバと組み、1990年は四大大会の女子ダブルスに3連勝しながら、全米オープンの決勝でジジ・フェルナンデスとナブラチロワの組に敗れ、年間グランドスラムを逃した。1998年にはヒンギスと組み、全仏オープンから全米オープンまで四大大会の女子ダブルスに3連勝している。
オリンピックには1988年のソウル、1992年のバルセロナ、1996年のアトランタの3度出場した。ソウルは、プロのテニス選手の出場を認めた歴史的な大会で、スコバとのダブルスで決勝に進んだが、アメリカのジーナ・ガリソンとパム・シュライバーの組に6-4、2-6、8-10で敗れた。1993年にチェコスロバキアが解体してからは、チェコの代表としてアトランタに出場し、ダブルスの銀メダルとシングルスの銅メダルを獲得した。
1999年の全米オープンの3回戦でアンケ・フーバーに敗れたあと、この年限りでの現役引退を表明した。直前の8月にグラフも引退を表明しており、女子テニス界は同世代の二人のトップを相次いで失った。2005年7月9日には国際テニス殿堂入りを果たした。2010年から乳癌を患い、長い闘病の末の2017年11月19日、家族に見守られながらチェコの自宅で亡くなった。49歳であった。
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