HISTORICAL PERSON · 2017年没

アリー・アブドッラー・サーレハ

イエメンの初代大統領。北イエメン時代から34年にわたり国家指導者を務めた。退任後、反政府勢力フーシと決裂し、殺害された。

生涯
2017年没
死亡地
イエメン共和国(サナア / サヌア)
出生地
イエメン共和国(Sanhan)
出典
世界地図
イエメン共和国(サナア)

伝記

アリー・アブドッラー・サーレハは、1947年3月21日に生まれたイエメンの政治家で、統一イエメンの初代大統領である。旧北イエメンの時代を含めれば、1978年から2012年まで34年にわたって国家指導者の座にあった。生まれはアル=アフマル市とされる。サーレハ家はシーア派のザイド派を信仰するアラブ系イエメン人だったが、ザイド派の中でもさらに少数の宗派に属し、ザイド派の多数派が王侯貴族を独占していた王国のイマーム制の下では、国政に関わる権利を持たなかった。

1958年、中等教育を途中でやめて北イエメン王国軍に兵士として入隊し、1960年には王立士官学校で学び、伍長に昇進した。北イエメン革命では、大佐らの軍事クーデターに賛同し、革命の終了後に共和国軍の少尉に昇進した。共和国政府と王党派の亡命政府による内戦が始まると、各地を転戦して昇進を重ね、1977年に大統領からタイズ県の軍司令官に任命された。1978年6月24日にガシュミー大統領が暗殺されると、臨時召集された最高行政委員会の一員として事態の収拾にあたった。7月17日、軍を押さえたサーレハは、委員会から第6代大統領に任命され、陸軍総司令官と陸軍参謀総長を兼ねると宣言した。議会の承認を伴ったかどうかには議論がある。

自らへの暗殺未遂として30名の将校を処刑するなど、軍内で大規模な粛清を行い、影響力を強めた。1982年8月30日には、自身が党首を務める翼賛連合「国民全体会議」を組織し、同党によって2期目を議会に承認させた。以後、議会は実質的にこの党の一党独裁状態となった。南イエメンとの統合の議論が1990年ごろに本格化すると、サーレハも前向きな姿勢を示し、新政府ではサーレハが大統領になることなどが決まった。1990年5月22日、統合によって初代のイエメン大統領に就任した。

1990年8月に湾岸戦争が始まると、ヨルダンのフセイン国王とともにイラクと戦うことを拒み、国際社会やアラブ諸国の非難を受けた。1994年5月、統合後の統治に反感を抱いた副大統領のアリー・サーリム・アル=ベイドが再分離を主張してイエメン内戦を起こしたが、サーレハは2か月の戦いの末に鎮圧した。1997年12月に陸軍元帥の名誉称号を授与され、1999年の大統領選挙では96.2パーセントの得票で再選された。2006年にも77.2パーセントの票を得て再選された。
2011年、チュニジアに端を発するアラブの春がイエメンにも波及し、サーレハ政権の打倒を求める動きが起きた。サーレハは2月に次期大統領選挙への不出馬を表明したが、3月18日には警察隊のデモ隊への攻撃で52人が死亡する惨事が起きた。4月には湾岸協力会議の仲介案に基づき退陣に同意したが、5月23日になって和平交渉を破棄した。6月3日、大統領宮殿が砲撃を受けて護衛兵4人が死亡し、サーレハ自身も負傷してサウジアラビアの病院に移送された。9月に帰国し、11月23日にリヤドで権限移譲の調停案に署名した。2012年2月の大統領選挙でアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが当選し、サーレハは正式に退いた。

退任後も国民全体会議の党首として影響力を保ち、かつて弾圧した反政府勢力フーシと連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦を戦った。しかし、2017年12月2日にフーシとの同盟関係が崩れたと発表し、サウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があると表明した。12月4日、フーシが樹立した政府の内務省がサーレハの殺害を公表し、遺体も確認された。70歳だった。

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