伝記
レイモン・コパは、本名をレイモン・コパゼフスキーといい、1931年10月13日に、フランス北部パ=ド=カレ県のヌー=レ=ミーヌで生まれたサッカー選手である。ポーランド系で、愛称は「ナポレオン」、ポジションはFWとMFである。生家は炭鉱労働者の家で、父方の祖父母が1919年にポーランドから、4人の子を連れてフランスに来た。その一人が彼の父フランソワである。母エレーヌもポーランド系で、少なくとも3代にわたる炭鉱労働者の家の出であった。ポーランドからの移民の多くと同じように、一家は自分たちの言葉と、カトリックの強い信仰を守り、家ではポーランド語を話した。学校では苦労したが、幼いころから暇さえあればサッカーをして過ごした。
通りで最初のチームをつくり、そのドリブルが地元のクラブの目に留まって、1941年にUSヌー=レ=ミーヌに入った。第二次世界大戦中、フランス北部はドイツ軍の占領下にあったが、友達とドイツ兵から革のボールを盗み、これが彼の最初の革のボールになったという。炭鉱で働きながらプレーしていたが、炭鉱の事故で指を1本失ったため、炭鉱の仕事を終えた。全国大会で2位になったことから、1949年にリーグ・ドゥのアンジェと契約してプロとなった。1951年には移籍金180万フランでスタッド・ランスに移り、そこで2度のリーグ優勝を果たした。1952年10月5日の西ドイツ戦で、フランス代表としてデビューした。
1956年のチャンピオンズカップ決勝でレアル・マドリードに3対4で敗れたが、その活躍が相手の首脳陣の目に留まった。翌シーズン、アルフレド・ディ・ステファノがスペイン国籍を取ったことで外国人枠に空きができ、レアル・マドリードへ移った。デビュー戦の親善試合では、14対1の大勝に貢献した。ディ・ステファノらとともに黄金時代を築き、在籍した間に毎年チャンピオンズカップに優勝し、スペインのリーグ優勝も2度経験した。1958年のスウェーデン・ワールドカップでは、ジュスト・フォンテーヌらとともに、ペレやガリンシャのいるブラジルに敗れて3位に終わったが、3得点を挙げ、最多のアシストを記録した。この年の活躍が認められて、フランス人として初めてバロンドールを受賞した。
1959年にスタッド・ランスに戻り、2度のリーグ優勝を果たした。1960年にはフランスの年間最優秀選手に選ばれたが、1963年から1964年のシーズンには17位でリーグ・ドゥへ降格した。1966年から1967年のシーズンに再びトップリーグへ昇格し、そのシーズンの終了後に現役を引退した。選手の権利を求めて運動し、有期の契約を勝ち取るために闘った。のちには実業家として成功し、自分の名を冠した会社の経営を続けた。1970年にはフランス人のサッカー選手として初めてレジオンドヌール勲章を受けた。1999年にはイギリスの雑誌が選ぶ20世紀の偉大な選手100人で91位に入り、2004年にはペレが選ぶ偉大な選手100人にも選ばれた。2010年には欧州サッカー連盟の会長賞を受けた。2017年3月3日、スタッド・ランスとレアル・マドリードが、その死去を発表した。
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