伝記
ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コールは、1930年4月3日、ドイツのバイエルン州プファルツ地方のルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(現在はラインラント=プファルツ州)に、カトリックの家庭の3番目の子として生まれた政治家である。父はバイエルンの財務官吏であった。兄のヴァルターは1944年11月に空襲で戦死した。コール自身は、戦争の終わりにヒトラーユーゲントで軍事教練を受け、空軍の対空砲の補助員として徴集されたが、生年のわずかな差のために戦闘には加わらなかった。ギムナジウム在学中の1946年に、キリスト教民主同盟に入党した。1950年からフランクフルト大学とハイデルベルク大学で、法学、歴史学、政治学を学び、1958年にプファルツの政治の変遷と政党の再建を論じた論文で博士号を取得した。1948年から知り合いだったハンネローレ・レンナーと結婚し、2人は2人の息子をもうけた。
1947年には党の青年組織の地元での設立にかかわった。1963年にラインラント=プファルツ州議会の党幹事長、1966年には州支部の代表となった。1969年5月19日に同州の首相に就任し、党の副党首となった。州首相としては、トリーア大学などの創建にかかわった。1971年に党首選に挑んだが、ライナー・バルツェルに敗れた。しかしバルツェルは、1972年に連邦首相ヴィリー・ブラントへの不信任案が不成立となったことから威信を落とし、翌1973年にコールが党首に就任した。1976年に首相候補として臨んだ連邦議会選挙では48.6%の得票率で第一党になったが、社会民主党と自由民主党の連立政権を倒せなかった。
1982年9月、与党の自由民主党と社会民主党が決裂すると、コールはただちに自由民主党と連立の協議をし、10月1日にヘルムート・シュミット首相への建設的不信任決議案を提出した。これが可決されて、コールは第6代の連邦首相に就任した。建設的不信任が可決されたのは、今のところこれが唯一の例である。1983年3月の総選挙で連立与党が勝って、政権はようやく安定した。北大西洋条約機構の軍事力の強化に取り組み、フランスとの同盟強化にも努めて、1984年にはミッテラン大統領とともに第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンを訪れ、手をつないで戦死者を悼んだ。この姿は、独仏関係の新時代を象徴するものとして有名である。
最大の政治的業績は、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊に始まるドイツの再統一である。統一されたドイツを警戒する声や、東ドイツを吸収する負担への危惧もあったが、コールは好機を逃す不利を説き、統一を一気に進め、統一ドイツをヨーロッパ連合と北大西洋条約機構の枠内に置くことで、米英仏ソ各国首脳の合意を得た。1990年10月3日にドイツは再統一された。1996年には初代首相アデナウアーの在任14年を抜いたが、国民は次第に飽きて、1998年の選挙で大敗して退陣した。首相在任の16年は、ビスマルク以来の長さである。退任後に党首も辞したが、1999年に受け取った200万マルクの政治献金の出所が明かされず、強い批判を浴びた。2001年に罰金30万マルクを払って立件は断念された。同年7月に夫人のハンネローレが亡くなり、2008年にはマイケ・リヒターと再婚した。2017年6月16日に死去した。87歳であった。メルケル首相は「偉大なドイツ人であり、偉大なヨーロッパ人だった」と述べた。
同じ年に亡くなった人物
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