HISTORICAL PERSON · 1669年没

レンブラント・ファン・レイン

オランダの画家で、光と影の明暗を強調する技法を得意とし「光の画家」と呼ばれた。油彩に加えエッチングも多く残し、代表作は『夜警』。若くして肖像画家として成功し、生涯を通じて自画像を描いた。

生涯
1669年没
死亡地
オランダ(北ホラント州 / アムステルダム)
出生地
オランダ(ライデン)
出典
世界地図
オランダ(北ホラント州)

伝記

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインは、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)の画家である。1606年7月15日、スペインからの独立を目前にしたライデンで、製粉業を営む父ハルマンと、パン屋の家に生まれた母ネールチェンのあいだに、9番目の子として生まれた。兄たちは家業の製粉業に就いたが、レンブラントは1613年にラテン語学校へ入り、1620年、14歳のときに飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。両親は法律家への道を期待したが、大学に籍を置いたのはわずか数か月で、まもなく画家を志した。1641年にライデン元市長が記したところによれば、息子が絵とデッサンにしか興味を持たないため、両親は退学させて画家のもとで学ばせたという。

イタリア留学の経験をもつ歴史画家に3年間学んで技法から解剖学まで身につけ、すでに評判を得ていた。1624年、18歳でアムステルダムの歴史画家ピーテル・ラストマンに半年だけ師事し、明暗を用いる技法や物語への嗜好、表現力を学んだ。ライデンに戻ると実家にアトリエを構え、1625年には年代の分かる最初の作品『聖ステバノの殉教』を描いた。同じ師に学んだ神童ヤン・リーフェンスと知り合い、競い合い、一時は共同で工房を持った。1628年には弟子の指導も始め、エッチングにも手を染めた。オラニエ公の秘書官でクリスティアーン・ホイヘンスの父は、二人の才能に目をかけ、レンブラントを判断力と表現力にすぐれた粉屋の息子と評した。二人ともイタリアへ行こうとしないことに驚いたという。

1630年に父が亡くなったのを機に、ライデンは狭いと感じていたレンブラントはアムステルダムへ進出した。1631年に画商の工房へ移って肖像画の仕事を始め、1632年にはトゥルプ教授の解剖の講義を受ける名士たちを描く大作に取り組んだ。当時の集団肖像画は、記念写真のように動きに乏しいものが多かったが、鉗子で腱をつまむ教授に全体の威厳を担わせ、熱心に聴く人々の姿でその学識を表した。この『テュルプ博士の解剖学講義』で高い評価を得た。1633年に裕福な一族の娘サスキアと知り合って翌年結婚し、アムステルダム市民となった。弟子はフェルディナント・ボルら50人が名を連ね、1635年に独立したアトリエを構えた。美術品や工芸品、衣装を手当たり次第に集め、1639年には13,000ギルダーで邸宅を購入したが、妻の財産を食いつぶすという非難も受けた。

1640年末に火縄銃手組合から集団肖像画を請け負い、1642年初頭に代表作『夜警』を完成させた。しかしこの頃には不幸が重なっていた。子のうち成人したのは1641年に生まれた息子ティトゥスだけで、1642年6月14日にはサスキアが29歳で亡くなった。結核と推測される。その後は乳母として雇った未亡人ヘールチェと関係を持った。また、注文主の要望に応じない芸術性や、完璧主義で顧客を長く待たせる姿勢が批判を招き、満足させる画家の方が好まれた。晩年は私生活の不幸と浪費癖による金銭的苦難にあえいだが、生前から著名で、オランダには比類する画家がいないとまで考えられていた。生涯を通じて自画像を描き続け、油彩のほかエッチングや素描でも多くの作品を残した。1669年10月4日に亡くなった。

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