伝記
ピエール・ド・フェルマーは、フランスの法律家であり数学者である。フェルマーの定理で知られ、「数論の父」とも呼ばれる。南フランスのトゥールーズ近くのボーモン=ド=ロマーニュに生まれ、1665年1月12日に没した。
生年は長く確定せず、従来は1601年生まれとされていたが、墓碑銘の「57歳で死す」という記述と合わないことが不可解であった。2001年、ドイツのクラウス・バーナー名誉教授が、従来の説は、1601年8月に生まれて生後まもなく死んだ異母兄ピエールとの混同によるものだと指摘して、矛盾を解消した。その後の2007年の調査で、生年月日は1607年10月31日から12月6日の間に絞り込まれた。ただ1607年から1611年の教区の記録に欠落があり、確かなことは言えないともされる。
父ドミニクは富裕な皮革商人で、町の第二の執政官も務めた。母クレールは法律家の家系の出とされるが、父は二度結婚しており、どちらが母かはわからないとする見方もある。生家は今も特定され、四代にわたるフェルマー家の人々が住んだという。初等教育を受けた場所はわからないが、トゥールーズとオルレアン大学で法律を学び、1631年に法学士の学位を得た。1627年ごろからボルドーで弁護士として、学者や法律家の集まりに出入りしたらしく、ヴィエトの代数記法を知り、極大と極小の方法や魔方陣について、手紙で語っている。
1631年、トゥールーズで請願委員の職を得て、母の従姉妹にあたるルイズ・ド・ロンと結婚し、7人の子をもうけた。議会の勅選議員となったのを機会に貴族の標「ド」を得て、ピエール・ド・フェルマーと名乗った。1648年にはトゥールーズ議会の勅選委員となり、死ぬまでその地位にあった。長男のサミュエルは法律家となり、子のジャンは大助祭となった。1629年、28歳のころには、失われたギリシャの幾何学者アポロニウスの著作を復元して送るなど、数学の才能を示し始めていた。1636年からメルセンヌと文通を始め、1638年には極小の方法を公表した。デカルトは手紙で、ギリシャの数学の復元にこだわる彼を非難した。
法律家としての職務のかたわら、数学の研究を趣味とした。パスカルと共同で確率論の基礎をつくり、デカルトと文通しながら、デカルトとは独立に解析幾何学を創案した。デカルトが二次元の理論にとどまったのに対し、彼は三次元の空間でも考えていた。幾何学や微分積分学でも先駆的な仕事を残し、なかでも数論の仕事は独創的で、後世の数論家に大きな影響を与えた。数論への傾倒の直接の契機は、古代ギリシャのディオファントスの『算術』の注釈本を、1630年ごろに手に入れて研究したことらしい。熟読するうちに余白に48の有名な書き込みを残した。その業績が世に知られたのは死後、長男のサミュエルが、父の書き込みを付けて『算術』を再出版してからで、生前の数論の研究は事実上孤立していた。書き込みのうち47の命題は、後の数学者が証明または反証したが、最後に残った命題は、長年解かれなかった。これがフェルマーの最終定理で、中学生にも理解できる内容ながら、360年にわたり数学の原動力の一つであり続け、1990年代にワイルズにより解決された。母語のフランス語のほか、スペイン語やラテン語で詩を作り、評価された。光学ではフェルマーの原理でも知られ、ベルからは「アマチュアの王子」と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- アルベルト・エクハウト (1665年没)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1610-1665) (1665年没)
- エリザベッタ・シラーニ (1665年没)
- ケネルム・ディグビー (1665年)
- ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ (1665年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト (1851年没)
- ダリオ・アンブロジーニ (1951年没)
- ウジェニー・ド・ゲラン (1848年没)
- ギヨーム・ロンドレ (1566年没)
- モーリス・ド・ゲラン (1839年没)