HISTORICAL PERSON · 407年没

金口イオアン

コンスタンティノポリスの主教を398年から404年まで務めたギリシア教父で、名説教から「黄金の口」を意味するクリュソストモスと呼ばれる。皇后の反感を買い流刑となり、道中で永眠した。三成聖者の一人。

生涯
407年没
死亡地
トルコ共和国(トカット県 / コマナ・ポンティキ)
出生地
トルコ共和国(アンティオキア)
出典
世界地図
トルコ共和国(トカット県)

伝記

金口イオアンは、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスの主教を398年から404年まで務めた、キリスト教の聖職者である。生まれはシリアのアンティオキアで、生年は345年、349年、354年のいずれかとされ、没年は407年9月14日である。ギリシア教父を代表する一人であり、名説教で知られたことから、死後100年以上を経た6世紀以後、「黄金の口」を意味するクリュソストモスの名で呼ばれるようになった。金口イオアンという表記は日本ハリストス正教会のもので、ヨハネス・クリュソストモスなど、日本語での呼び名は多様である。

ローマ帝国の将軍の子として生まれ、夫を亡くした母の手でキリスト教徒として育てられた。381年に聖職者となり、修道士として、また神品として、次第に名声を高めていった。398年、アンティオキアで声望の高かった彼は、ネクタリオスの後継として、コンスタンティノープルの大主教に推挙されて着座した。当時はまだ総主教制がなかった。

しかし、彼の着座に反対し、着座後もその地位をねたむ人々がいた。アレクサンドリア大主教テオフィロスが筆頭で、そのほか、職務怠慢を彼に叱責されたり免職されたりした神品たちも、彼を憎んでいた。彼は金持ちの婦人の奢侈を戒める説教をしたが、これを皇后を指したものだと告げ口する者が現れた。怒った東ローマ皇帝アルカディウスの皇后は、テオフィロスや、彼に反感を抱く主教たちと結び、皇帝に彼を告発した。その後、彼を守ろうとする民衆と皇帝側の役人との小競り合いが繰り返され、そのたびに彼は捕縛と釈放を重ねたが、結局ニケーアへの流刑となった。到着後に流刑先はカッパドキアのククススに変更され、彼を慕う多くの人々が訪れて、物心両面から支えたという。

最終的に黒海沿岸への移送が決まった。炎天下でも雨の日でも歩かせ続けるという酷い扱いが彼の体力を奪い、道中のコマナ・ポンティカで没した。亡くなる前には領聖し、「全ての栄光は神に帰す」と唱えたと伝えられる。30年後、遺骸はコンスタンティノープルに移され、海峡は、遺骸を迎えようとする民衆の舟で埋め尽くされたという。

説教は簡潔でありながら、聖書を自在に引用し、聖書の挿話や信者の生活を身近なものにたとえ、対句や反復を用いて、信仰の要点をわかりやすく示した。著作には、モーセ五書、聖詠、ヨハネによる福音書、パウロ書簡などの注釈が残る。正教会では、彼を大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオスとともに三成聖者と呼び、中世半ばからは合同の祭りを持つようになった。彼個人の祝日を東方教会では11月13日、カトリック教会では9月13日とする。ビザンティン式の奉神礼で用いられる「金口イオアンの聖体礼儀」は彼に帰せられるが、現在の形は後世の付加を含むとされる。西方の教会にも影響は及び、彼の講話、書簡、論考は、古今を問わず西方の修道院で個人的に読まれ、食卓などでも公に読まれた。1997年の『カトリック教会のカテキズム』にも、祈りの目的や「主の祈り」の意味についての説教が引用されている。19世紀イングランドの神学者ニューマンは、彼を「快活で明るい、穏やかな精神、高い感受性を持った心」と評した。東京のニコライ堂の東面には、彼と大バシレイオスのイコンを描いたステンドグラスがある。また、ユダヤ人に対する激しい非難の言葉が残り、後世の反ユダヤ主義に利用されたとの指摘もある。

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