HISTORICAL PERSON · 2016年没

ラーマ9世

チャクリー王朝第9代のタイ国王で、1946年から2016年まで在位した。通称はプミポン国王で、米国マサチューセッツ州に生まれ、スイスで学んだ。

生涯
2016年没
死亡地
タイ王国(バンコク / シリラート病院)
出生地
アメリカ合衆国(マウント・オーバーン病院)
出典
世界地図
タイ王国(バンコク)

伝記

ラーマ9世は、1927年12月5日にアメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジで生まれ、2016年10月13日に亡くなったチャクリー王朝第9代のタイ王国の国王である。在位は1946年6月9日から2016年10月13日までで、通称はプーミポン・アドゥンヤデート(大地の力、並ぶ事なき権威の意)という。

ラーマ5世の69番目の子であるソンクラーナカリン王子を父に生まれた。学業はスイスのローザンヌ大学で修め、第二次世界大戦の終結後の1945年にいったんタイへ帰還した。翌1946年6月9日に兄のラーマ8世が怪死したため、その死の12時間後に国王に即位した。その後すぐにローザンヌ大学に復帰し、1952年にタイへ還った。1950年4月、フランス滞在中に出会った、従兄弟の娘にあたるシリキット・キッティヤーコーンと結婚し、同年5月5日に戴冠した。1956年にはタイの仏教の伝統に基づいて出家し、一時的に俗世間を離れ、還俗までの間はシリキット王妃が摂政を務めた。王妃とは1男3女をもうけた。

タイは1932年6月24日の立憲革命以降、立憲君主制ではあるものの、実質的には軍事政権のもとに置かれた時期が長かった。民政への移管とその失敗、軍事クーデターが繰り返され、政権の不安定な状況が続いた。若い国王は、政治の象徴的な頂点にすぎなかった。1960年代から1970年代には、植民地の独立や共産主義の波及を受けて、東南アジア諸国が混乱するなか、表立った政治行動を避けつつ、軍政と市民運動に硬軟両様で対応した。やがてタイが東南アジア諸国連合で重要な地位を占め、経済力が増すと、国内政治には直接干渉せず、官僚や軍部など利害関係の調停役として采配を振るい、困難な情勢の収拾に手腕を見せた。ラーマ7世以来失墜していた国王の地位は、大きく回復したといえる。

1992年の「暗黒の5月事件」は、その象徴的な出来事だった。政府の武力弾圧でバンコクなどが流血の事態に陥った際、国王は、軍を背景にするスチンダー首相と、民主化運動の民間人の指導者チャムロンを、玉座の前に等しく正座させ、双方をいい加減にせよと叱りつけて、騒乱を一夜で鎮めた。この結果、スチンダー内閣は解散した。1997年のアジア通貨危機では、自立的で持続可能な経済成長を目指す「足るを知る経済」の考えを提唱し、タイ人の経済行動に大きな影響を与えた。2003年にカンボジアの大使館に約500人が押し寄せたときには、「悪党の言葉に惑わされてはならぬ」と発言し、暴徒は解散した。2006年4月には、野党が立候補をボイコットした総選挙を「民主主義的ではない」として、やり直しの意向を示し、憲法裁判所が再選挙を命じた。

2006年6月には、即位60周年を祝う行事が国を挙げて行われ、世界24か国の君主や王族が出席した。2007年10月に、右半身の不調で入院して、脳血流障害と診断されたが、投薬で急速に回復し、11月7日の退院の際には、沿道に黄色の服を着た数万人の市民が集まった。2016年6月9日には在位70年を迎え、存命中で最も在位の長い君主となったが、国王は入院中だった。10月13日午後3時52分、入院していたシリラート病院で崩御した。在位は70年4か月に及んだ。人々は喪の表明として黒い服を着て、翌2017年10月26日に、バンコクの王宮前広場に設けられた施設で火葬の儀式が行われた。農村開発や干ばつ対策の人工雨など、国王自らが指導する「王室プロジェクト」を通じて、タイ国民の尊敬と信頼を得た。

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