HISTORICAL PERSON · 2016年没

ザハ・ハディッド

イラク出身、イギリスを拠点に活躍した建築家。脱構築主義を代表し、奇抜さから建築されないことも多く「アンビルトの女王」と呼ばれた。曲線的なデザインを得意とした。

生涯
2016年没
死亡地
アメリカ合衆国(フロリダ州 / マイアミ)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(フロリダ州)

伝記

ザハ・ハディッドは、1950年10月31日にイラクのバグダードで生まれ、イギリスを拠点に活躍した建築家である。ザハはアラビア語で「輝き、壮麗さ」を意味する名で、ハディッドは「鉄」を意味し、もとは曽祖父の名前を家名代わりに使っているものである。父は政治家で、リベラル系の政党の指導者だった。建築に関心を抱いたきっかけは、父に連れられてイラク南部のシュメール文明の遺跡を訪れたことで、後年、小舟で巡った沼地の村々の、砂、水、葦、鳥、家々、人々が一緒くたに流れる風景の美しさは忘れられないと語っている。

幼いころはカトリックが運営するフランス語学校で学んだ。イスラム教徒もユダヤ教徒も机を並べる、リベラルな雰囲気の学校だった。ベイルートのアメリカン大学で数学を学び、イラクでサッダーム・フセインが権力を握ると、家族はイラクを離れた。1972年に渡英してロンドンの建築学校AAスクールで学び、1977年に卒業すると、教師のオランダ人建築家レム・コールハースの設計事務所OMAで働いた。1980年に独立して自分の事務所を構えている。

名が知られるようになったのは、1983年の香港のビクトリア・ピークに計画された高級クラブのコンペである。磯崎新の推薦で一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が宙に飛び散るような案は、直後に事業者が倒産したため建設されなかった。1988年にはニューヨーク近代美術館の脱構築主義建築展で注目されたが、独立から十数年間は、実現した建築がなかった。奇抜な案が建たないことが多く、「アンビルト(建たず)の女王」の異名を持っていた。1990年には札幌のレストランの内装を手がけ、同年の大阪の国際花と緑の博覧会でもフォリーを設計した。最初に実際に建てられたのは、1993年から1994年にかけて、ドイツのヴァイル・アム・ライン市にある家具会社の敷地に建設したヴィトラ消防署である。

1994年にウェールズのカーディフのオペラハウスのコンペで勝ったが、保守的なチャールズ皇太子(当時)が伝統主義的な建築の復興を訴える運動をしていた影響もあって、コンペはやり直しになった。再度勝っても、資金を出す予定だった国営くじ公社が計画を中止した。2000年代になると建築技術の進歩により、建てられる案が増えた。2006年に、がん患者を支援する団体のマギーズ・センターズの、ファイフのビクトリア病院内の施設を設計し、これがイギリスで最初に建てられた作品となった。2004年には女性として初めてプリツカー賞を受賞し、2002年に大英帝国勲章コマンダー、2012年にデイム・コマンダーを受けた。2012年のロンドン五輪の水泳会場も設計している。

2012年には、日本の国立競技場のコンペで最優秀賞を受け、設計に当たることになった。しかし建設費の大幅な超過が世論の批判を呼び、2015年7月17日に安倍晋三首相が計画の白紙撤回を決断した。ザハ事務所は、費用の高騰の理由として、早期の施工者入札と、建設業者との協働の禁止などを挙げて反論している。2016年には女性として初めて王立英国建築家協会のゴールドメダルを受けた。同年3月31日、気管支炎の治療を受けていたマイアミの病院で、心臓発作のために亡くなった。ロンドンの事務所は、旧小学校の建物を使い、250人が働いていた。

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