HISTORICAL PERSON · 1661年没

ジュール・マザラン

イタリア出身のフランスの政治家・枢機卿。リシュリューの信任を得て帰化し、ルイ13世の死後は摂政アンヌ・ドートリッシュの相談役を務めた。

生涯
1661年没
死亡地
フランス共和国(ヴァル=ド=マルヌ県 / ヴァンセンヌ)
出生地
イタリア共和国(ペシーナ)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴァル=ド=マルヌ県)

伝記

ジュール・マザランは、1602年7月14日にイタリア中部アブルッツォ地方のピッシーナで生まれ、1661年3月9日にヴァンセンヌで没した17世紀フランス王国の政治家、枢機卿である。イタリア人で、本名はジュリオ・マッツァリーノまたはマザリーニという。庶子であったともいわれる。父ピエトロはシチリア出身で、ローマの有力なコロンナ家に仕え、その生地のマッツァリーノ城塞にちなんだ名を名乗った。母オルテンシアはウンブリアのチッタ・ディ・カステッロの貴族の出で、夫妻には男2人女4人の子がおり、彼は長男であった。弟のミシェルは司祭となり、のちにエクスの司教になった。

早くにローマへ移り、7歳でイエズス会のコレジオに送られて、優秀で愛嬌のある生徒だったという。16歳ごろから放縦な時期があり、両親はコロンナ家の後援で彼をスペインのアルカラ・デ・エナーレス大学に送り、教会法を学ばせた。3年の滞在でスペイン語を完全に身につけ、この能力はのちに役立った。スペイン人の娘と結婚寸前まで恋に落ちたが、コロンナ家の子息にだまされて帰国させられたという。帰国後は学業を終え、ヴァルテッリーナの管理が教皇に委ねられると、新設の部隊の大尉となった。1626年に教皇軍が撤退した後、フェラーラからローマへ通って報告を行うなど、フランスやスペインとの交渉で欠かせない存在となった。1628年に民法と教会法の博士の称号を得て、教皇特使の秘書として、マントヴァ継承戦争を防ぐための外交に奔走した。絶えず旅して、決定権を持つ人々の信頼を得るのが、彼の外交の流儀だったという。

1630年1月29日、リヨンで初めてリシュリューに会った。リシュリューは冷淡で、彼を「交渉より偵察に来た男」だと書いた。同年、一時停戦の約を破って進軍するリシュリューの部隊の前に、彼が単騎で現れて停戦を呼びかけたという逸話がある。1634年に教皇特使としてパリへ派遣されると、リシュリューの信任を得た。1639年にフランスに帰化し、1641年にルイ13世の推挙により、教皇ウルバヌス8世によって枢機卿に任じられた。聖職者だが司祭ではなかった。

1642年にリシュリュー、1643年にルイ13世が相次いで死ぬと、摂政となった太后アンヌ・ドートリッシュの相談役、かつルイ14世の教育係となった。辞令は出ていないが、実質的な宰相であった。アンヌと秘密結婚をしたともいわれ、ルイ14世を彼の子とする説もあるが、アンヌの妊娠した1637年12月5日には、彼はまだイタリアにいたため、これは根拠のない噂とされる。政策はリシュリューを継ぎ、ルイ14世の絶対王政の地ならしをした。三十年戦争への介入を続け、1648年のヴェストファーレン条約でアルザスの大部分とヴェルダン、メッツ、トゥールを得た。戦争のための重税でフロンドの乱(1648年から1653年)を招いたが、反乱側の内部分裂を利用して鎮圧し、大貴族を弱めて王権を強めた。コルベールを登用して重商主義を進めた。1659年にはクロムウェルと結んでスペインを破り、ピレネー条約でアルトワとルシヨンを得て、翌1660年にルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズの政略結婚を実現した。

聖職者で独身であったが、妹たちの娘である姪たちを次々と政略結婚に利用し、7人はマザリネットと呼ばれた。1661年に没すると、翌日ルイ14世は親政を宣言した。彼自身が親政を勧めたともいう。亡骸はフランス学士院に葬られている。

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