伝記
ボフダン・フメリニツキーは、1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊、スボーチウに生まれ、1657年8月6日に没したポーランド・リトアニア共和国の貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。1648年から1657年までコサックの最高指導者ヘーチマンを務め、共和国に対するフメリニツキーの乱を起こして、ヘーチマン国家を建設した。
父はコサックの小領主であった。近所の教会学校で初等教育を受け、その後はヤロスワフのイエズス会の神学校か、ポーランドの大将軍ジュウキェフスキがリヴィウに設立した学校で学んだとされる。同級生にはローマ・カトリック教徒が多かったが、少年は正教会の信者であり続けた。ウクライナ語、ポーランド語、ロシア語、トルコ語、ラテン語を身につけたとされる。1620年、父に従ってツェツォーラの戦いに加わり、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国軍と戦った。この戦いで父は戦死し、自身は捕虜となってイスタンブールに2年間抑留されたが、その間もトルコ語の習得に励み、オスマン帝国の情勢に精通した。1622年に母が身代金を工面して帰国を許され、登録コサックに入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営のかたわらコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高く評価されたという。
1637年から1638年のコサックの反乱には軍団書記として従軍し、1645年ごろにはフランス王国へ派遣されたほか、王ヴワディスワフ4世の対クリミア作戦計画にも参加した。転機は1647年、チヒルィーンの副長官チャプリンスキが、50歳を超えていた彼の領地を奪おうとしたことであった。法廷や議会、王に訴えたが認められず、各地のコサックの有力者に立場を訴えて回ると、反乱の根回しを疑われて逮捕された。死刑を宣告されたが、12月に代官を説得して出獄し、共和国への蜂起を決意した。ポーランド貴族の収奪に不満を募らせていたコサックたちを説得することにも成功した。
1648年、会議でザポロージャのコサックのヘーチマンに選ばれ、クリミア・ハン国と同盟して、ジョーウチ・ヴォーディの戦いで政府軍に勝った。コサックとタタールの同盟軍は、秋にはワルシャワに達する勢いだった。新王ヤン2世カジミェシとの和平で、コサックの伝統的権利の維持が約束され、彼は兵を引いてキーウに凱旋し、正教会の府主教らから「ポーランドからの解放者」「第二のモーゼ」と呼ばれて歓迎された。その後ズボーリウの戦いでポーランド軍を破り、ズボーリウ条約で、キーウ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州がコサック領とされ、ウクライナは事実上のコサック国家となった。
だが周囲は敵に囲まれていた。1651年6月の戦いではタタール軍が寝返り、彼自身も拘束され、コサック軍は大敗して、登録コサックは2万人に減らされた。同盟国を求めて一時はオスマン帝国の宗主権下に入り、1654年にペレヤースラウ条約でロシア・ツァーリ国の保護下に入った。同じ正教徒との同盟は歓迎されたが、のちにモスクワによる支配の口実ともなった。1656年にポーランドとモスクワがスウェーデンとの戦いのために同盟を結ぶと、彼は怒り、ロシアからの独立をも目指して再び蜂起を試みたが失敗し、1657年に病死した。ウクライナでは最大の英雄とされる一方、ポーランドでは国家崩壊の始まりとされ、ユダヤ人にとっては1648年の大虐殺と結びつく否定的な存在である。
同じ年に亡くなった人物
- エミリア・アントウェルピアナ・ファン・ナッサウ (1657年没)
- ウィリアム・ブラッドフォード (1657年没)
- ロバート・ブレイク (1657年没)
- フランス・スナイデルス (1657年没)
- マウリツィオ・ディ・サヴォイア (1593-1657) (1657年没)
同じ地域に関係する人物
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- イェジ・ルジツキ (1942年没)
- ヤロポルク1世 (980年没)
- ナフマン・ブラツラフ (1810年没)
- ユーリー・イリエンコ (2010年没)