伝記
フェルディナント3世は、1608年7月13日にグラーツで、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世と最初の妃マリア・アンナの三男として生まれた。洗礼名はフェルディナント・エルンストである。ケルンテンで両親の愛情のもとに育ち、父の宮廷ではイエズス会から宗教と学問の教育を受けた。二人の兄が亡くなったため父の後継者に定められ、統治の準備を受けた。父と同じく敬虔なカトリックだったが、宮廷を支配していたイエズス会の影響力にはいくらか嫌悪も抱いていた。1625年にハンガリー王位、1627年にボヘミア王位を継ぎ、父の治世を助けた。1631年には従妹にあたるスペイン王女マリア・アンナと結婚した。
三十年戦争の継続中、1634年に皇帝軍司令官ヴァレンシュタインが父の手で暗殺されると、その後を受けて皇帝軍の指揮権を委ねられた。当初は飾り物で、帝位継承者であることを宣言させるものでしかなかった。しかしスウェーデン・ハイルブロン同盟軍がネルトリンゲンに侵攻すると、従弟で義弟のスペイン領ネーデルラント総督フェルナンドのスペイン軍を投入して破り、その存在を知らしめた。この勝利は父を喜ばせた。1635年には皇帝の委員としてプラハ条約の交渉にあたり、1636年に選帝侯によりローマ王に選出された。1637年に父が死去して神聖ローマ皇帝に即位した。
しかしその後も戦争が続き、帝国内は大いに荒廃した。1635年のフランス軍の侵攻でプラハ条約は破綻し、皇帝軍はスウェーデン軍とフランス軍に敗北を重ねた。1642年のブライテンフェルトの戦いでは弟のレオポルト・ヴィルヘルムがトルステンソンに敗れ、戦況は不利となった。1643年のロクロワの戦いでスペイン軍が大敗してスペインの援助は期待できなくなり、1645年にはボヘミアへ侵攻したスウェーデン軍に敗れて、プラハからウィーンへ逃げる失態を犯した。翌1646年、ボヘミア王位を長男フェルディナント4世に譲った。1648年にプラハがスウェーデン軍に包囲されると、皇帝側の敗北は決定的となり、彼はヴェストファーレン条約の締結を受諾して、ようやく三十年戦争を終結させた。
この条約は近代国家最初の国際条約とされる。皇帝はプロテスタント諸侯の特権を大幅に認めて、領邦の自立権を認め、オランダとスイスの独立も正式に承認した。国家としての神聖ローマ帝国は崩壊し、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」ともいわれる。フランスとスウェーデンには帝国内の領土の領有も認めさせられた。それでもハプスブルク家の領地は維持され、プラハも陥落しなかったのでボヘミア王位は保たれた。戦後は条約の履行に尽力し、1656年にはスペインに援軍を送り、死の直前にはスウェーデン王カール10世の野望を警戒してポーランド・リトアニア共和国と同盟した。1657年、48歳で死去し、長男は先に世を去っていたため、帝位は次男のレオポルト1世が継いだ。音楽家の庇護者で、ジョヴァンニ・ヴァレンティーニに音楽を学び、作曲家フローベルガーとも親しかった。自らも作曲を行い、ミサ曲やモテットを残した。ハプスブルク家で最初に作曲家として認められた君主とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ブラッドフォード (1657年没)
- ジョン・リルバーン (1657年没)
- ラウラ・マンチーニ (1657年)
- オリンピア・マイダルキーニ (1657年没)
- グスタフ・ホルン (1657年没)
同じ地域に関係する人物
- レオポルト・ホフマン (1793年没)
- マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ (1762-1770) (1770年没)
- ヤーン・コラール (1852年没)
- フェルディナント4世 (ローマ王) (1654年没)
- ヨセフィン・スヴォボダ (1924年没)