伝記
ウィリアム・ハーヴィーは、1578年4月1日、イングランド南部ケントのフォークストーンで生まれた。父トマス・ハーヴィーは、代々牧羊業を営み運送業も経営する新興階層(ヨーマン)で、フォークストーン市長も務めた。母はジョーン・ホークで、9人兄弟(7男2女)の長男だった。1605年に母が亡くなった後、父と兄弟たちはロンドンへ移り、4歳下の弟ジョンは宮廷に仕えて出世し、他の兄弟たちは貿易商人として成功した。父が亡くなる直前に紋章院から紋章の使用を認められ、家はヨーマンからジェントルマンへと地位を高めた。
1588年にカンタベリーのキングズ・スクールへ通い、ラテン語と弁論を身につけた。1593年からケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで修辞学、道徳、政治学、自然哲学を学び、1597年に学士号を得た。その後イタリアのパドヴァ大学へ留学し、解剖学者ファブリキウスに師事して、1602年に医学博士の学位を得た。同年、イングランドへ帰ってロンドンで開業し、1604年に医師会へ申請して会員候補として入会を許された。同年にエリザベス・ブラウンと結婚したが、子はなかった。医師会には1607年に正式に加わり、1627年と1629年には二度、選任会員になった。1609年には聖バーソロミュー病院の内科医に選ばれ、1615年にはラムリー講座の講師となって、名医としての評判を確立した。1618年にはジェームズ1世の侍医となった。
1628年に血液循環説を発表し、これはアリストテレスやガレノスの説を信じる学者から激しい反論を呼んだ。ガレノス説に固執した同世代の保守的な医者や哲学者が反対派となり、より下の世代やオランダなど外国の医師が賛成派となった。1630年代になると、その実験はヨーロッパに広まり、血液循環説が認められていった。それでも、「循環器」という藪医者を意味するあだ名がつけられ、患者は減ったという。反論への再反論は1649年に冊子の形で行った。ジェームズ1世の死後は、チャールズ1世に仕えて1625年から侍医となり、1631年からは常勤侍医となった。国王の命令でヨーロッパ旅行に二度随行し、1639年には上位常勤侍医に昇進した。
1642年に第一次イングランド内戦が始まると、王党派を支持してロンドンを脱出し、国王のもとへ合流した。10月23日のエッジヒルの戦いでは前線に立って王子たちを守った。この行動で聖バーソロミュー病院から給料の支払いを停止され、1644年には解任された。1645年には国王の推挙でオックスフォード大学マートン・カレッジの学長に就いたが、翌1646年6月にオックスフォードが議会派に落とされると、学長職を解かれて2000ポンドの罰金を科された。ロンドンに戻ると、自宅に残した原稿が失われていた。妻や弟たちを次々と亡くし、子もなく、生き残った弟エリアブの家に身を寄せたと推定される。1650年にはランプ議会が国王派をロンドンから追放し、70歳を超えた彼は痛風にも悩んだ。
この時期に発生学でも足跡を残し、1651年公刊の『動物の発生』で、シカの交尾前後からの発生の段階を観察し、「胎児は月経血から生じる」というアリストテレスの説を否定した。哺乳類の卵は見つけられなかったが、その存在を確信し、「すべては卵から」との言葉を残した。その後ロンドンに戻り、医師会にも復帰して名誉を回復した。血液循環説は広く受け入れられ、満ちたりた晩年を過ごした。1657年6月3日、79歳で脳溢血により死去し、遺体はエセックスにあった家族礼拝堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- エフェルト・ファン・アールスト (1657年没)
- オリンピア・マイダルキーニ (1657年没)
- ディルラース・バーヌー・ベーグム (1657年没)
- アンジェイ・ボボラ (1657年没)
- メナセ・ベン・イスラエル (1657年没)
同じ地域に関係する人物
- アニー・ラッセル・モーンダー (1947年没)
- コリン・レッドグレイヴ (2010年没)
- ジョン・サーティース (2017年没)
- ヘンリー・シンジョン (初代ボリングブルック子爵) (1751年没)
- クリスチャン・バッケラド (2011年没)