伝記
シラノ・ド・ベルジュラックは、1619年3月6日、パリ高等法院に席をもつ弁護士の第4子として、パリに生まれた。母はエスペランス・ベランジェである。ルイ13世の治下、三十年戦争の時期にあたる。幼いころは祖父から受け継いだ領地の司祭宅で教育を受けた。この領地サン=フォルジュはパリの西南西30キロ、現在のイヴリーヌ県にあり、その一角のベルジュラックが、彼の名の「ド・ベルジュラック」の由来となった。ドルドーニュ県のベルジュラック市とは別である。祖父は魚商で財を成してこの土地を買い、そのことで一家は小貴族の仲間入りをした。10歳でパリ大学に附設する学寮の前身に入学し、1639年、20歳で学園を離れた。
その後は生涯の友とともに、ガスコーニュの青年隊に入隊した。勇敢さと決闘の多さで名を知られたが、出世には至らず、1640年、三十年戦争のアラスの攻囲戦で重傷を負い、翌年に軍隊を去ってパリへ戻った。回復後にはさらに剣術を習い、100人を相手にして2人を殺し7人を傷つけたという武勇伝が、ル・ブレの書簡をもとに伝わっている。科学と哲学を研究し、デカルトの論敵の自由思想家ピエール・ガッサンディに学んだといわれる。ポール・スカロンやモリエールなど自由思想的な文人とも交わり、唯物論的な文筆生活を送った。
1648年にフロンドの乱が始まると、経済的な理由から反マザラン派に属し、宰相マザランを風刺する詩集『レ・マザリナード』を書いた。ところが2年後には一転して『フロンド派に反対する手紙』を書き、反マザラン派を攻撃した。このとき年来の友人たちと次々にいさかいを起こした。1653年からは庇護者の館に寄食し、1654年に悲劇『アグリッピーヌの死』を捧げ、喜劇『担がれた衒学者』も出版した。同年、この館で材木が頭に落ちて重傷を負ったが、それが偶然か復讐かには説がある。ダルパジョン公の援助のもと、末妹と尼僧院長、ル・ブレに引き取られ、1年余り介護を受けた。1655年7月、パリ近郊サノワ村の従兄の家へ移り、5日後の28日に36歳で死去した。死因は頭の傷ではなく梅毒だったとされるが、傷が原因とする記述もある。のちにペール・ラシェーズ墓地に移葬された。
『月世界旅行記』は没後に、友人ル・ブレが序文と伝記を付けて出版し、『太陽世界旅行記』は1662年に刊行された。月を地球と同じ天体とみなし、ロケットを何段も配置した装置で月へ向かう主人公が描かれ、宇宙飛行を複数のロケットで表した最初期の作家とされる。月には四本足で歩く知的生命体がいて、独特の風習を持つと語られ、SFの先駆的な作品とされる。『衒学者先生』は、モリエールが『スカパンの悪だくみ』に借用したことでかえって知られた。1897年に上演されたエドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』は、大きな鼻に悩みながら一人の女性を胸中で恋い慕い続ける男として彼を描き、その名を広く知らしめた。
同じ年に亡くなった人物
- 宇喜多秀家 (1655年没)
- ニコラウス・クニュプファー (1655年没)
- コルネリス・スフート (1655年没)
- フリードリヒ・フォン・ロガウ (1655年)
- ヤヌシュ・ラジヴィウ (1612-1655) (1655年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ド・ブラバン (1321年没)
- ジョルジュ・デュアメル (1966年没)
- フレデリック・モーリス・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (ブイヨン公) (1652年没)
- ゴトリブ (2016年没)
- フィンセント・ファン・ゴッホ (1890年没)