HISTORICAL PERSON · 1655年没

インノケンティウス10世 (ローマ教皇)

元法学者のローマ教皇。スペインに教皇大使として赴き、ベラスケスと出会った。バルベリーニ家を弾劾し、ヴェストファーレン条約に回勅で抗議したが無視され、1653年にジャンセニスムの5命題を弾劾した。

生涯
1655年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

インノケンティウス10世は、1574年にローマで生まれたローマ教皇(在位1644年〜1655年)で、本名をジョヴァンニ・バッティスタ・パンフィーリという。家は中部イタリアのグッビオの出で、法学を修め、伯父ジローラモに続いて、教会の控訴裁判所であるロータの判事を務めた。1620年代にはナポリへ教皇使節として赴き、1626年にアンティオキア大司教となり、同年、教皇ウルバヌス8世の甥である枢機卿のお供も兼ねてスペインへ赴任して、画家ディエゴ・ベラスケスと出会った。1629年に枢機卿に選ばれた。教皇庁では主に外交の分野で目覚ましい業績を挙げた法学者であった。

1644年、ウルバヌス8世の没後の教皇選挙は、スペインの枢機卿団と、ジュール・マザラン枢機卿に率いられたフランスの枢機卿団が激しく対立して混乱を極め、2か月半に及んだ。前教皇のフランス寄りの姿勢を改めたい枢機卿団がパンフィーリを支持し、フランス側も妥協案として合意して、彼はインノケンティウス10世を名乗った。選出後は親スペインに路線を変えたため、フランスとの関係は悪化した。教皇は縁者びいきを改めるとして、前教皇の一族バルベリーニ家の弾劾から始めた。一族は教皇庁財産の横領容疑で訴えられ、フランスに逃れてマザランの庇護を受けたが、フランス軍が出動の姿勢を見せると教皇は妥協に追い込まれ、兄弟は帰郷した。のちにはパンフィーリ家がバルベリーニ家と政略結婚を結ぶまでになった。

外交ではスペインに肩入れしてポルトガルの独立に反対した。三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約については、平和を歓迎しながらも、カトリックに不利でプロテスタントに有利な内容だとして反発し、1648年の回勅で激しく抗議したが、無視され、教皇権の衰退が明らかとなった。神学では、1653年5月31日、コルネリウス・ヤンセンの著作をめぐり、自らが任命した委員会に2年にわたって討議させたうえで、5箇条の命題を誤謬として弾劾した。また、イングランド内戦にも介入し、チャールズ1世の支援に前向きな姿勢を示した。1645年にはアイルランド・カトリック同盟の要請に応じて特使を派遣したが、プロテスタントとの妥協に反対する指示が和睦交渉を決裂させる結果を招き、チャールズ1世がアイルランドから援軍を得る計画は不可能になった。

教皇の統治に大きな影響を与えたのは、義姉のオリンピア・マイダルキーニである。欲深いとされる彼女は噂や中傷を生み、聖職売買や親族登用に走り、教皇も言いなりになって、廃止したはずの縁者びいきに手を染めた。1651年には、呼び戻したファビオ・キージを国務長官に任命し、彼は後に教皇アレクサンデル7世となった。晩年は健康が悪化して怒りの発作もあり、外交でも内政でも失敗が続いた。1650年にはオリンピアと口論の末に追放しながら、彼女無しではやっていけないと知って呼び戻したという。孤独な晩年を送り、1655年1月7日、80歳で死去した。人望を失っていたため、遺骸は3日間放置され、葬儀費用は誰も出さなかったと伝えられる。

一方、芸術の保護者としてボッロミーニとベルニーニを援助し、建築を行わせた。ベルニーニには自身の胸像や噴水制作を任せ、ナヴォーナ広場の有名な四大河の噴水はこの時代に築かれた。1649年にベラスケスがローマを訪れると肖像画の制作を承諾し、1650年に『インノケンティウス10世の肖像』を描かせている。

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