伝記
ナタリー・コールは、本名をナタリー・マリア・コールといい、1950年2月6日にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれたアメリカ合衆国の歌手、シンガーソングライター、女優である。歌手でジャズ・ピアニストのナット・キング・コールと、デューク・エリントン楽団の歌手だったマリア・ホーキンス・エリントンの娘で、ロサンゼルスの裕福なハンコック・パーク地区で育った。自分の家族を「黒人のケネディ家」と呼び、幼いころからジャズやソウル、ブルースの偉大な歌手たちに触れていた。1960年の父のクリスマス・アルバムで歌い、11歳のころから人前で歌いはじめたという。
東部ニューイングランドの名門寄宿学校ノースフィールド女子校に入ったが、1965年2月に父が肺癌で亡くなった。その後は母との関係がぎくしゃくしたとされる。バックリー・スクールを経てマサチューセッツ大学アマースト校に入り、一時は南カリフォルニア大学に移ったがまた戻って、児童心理学を専攻し、ドイツ語を副専攻として1972年に卒業した。アレサ・フランクリンやジャニス・ジョプリンを聴いて育ち、卒業後はバンドを組んで小さなクラブで歌ったが、クラブは当初、ナット・キング・コールの娘だからと歓迎しながら、ナタリーがリズム・アンド・ブルースやロックのカバーを歌いだすと失望したという。そこで、作詞作曲とプロデュースの二人組チャック・ジャクソンとマーヴィン・ヤンシーの助けを得て、カーティス・メイフィールドが所有するシカゴのスタジオで録音をし、そのデモ・テープがキャピトルとの契約につながった。
1975年にデビュー・アルバム『インセパラブル』を発表し、「ジス・ウィル・ビー」がビルボードの全米総合チャートで6位のヒットとなった。この曲でグラミー賞の最優秀R&B女性ボーカル賞を受け、最優秀新人賞も受賞して、黒人としては初めてこの賞を獲得した。同じくヒットした表題曲とともに、R&Bのチャートで1位となっている。メディアが「新しいアレサ」と呼んだことから二人の対立が語られたが、1977年のグラミー賞でコールの「ソフィスティケイテッド・レディ」がフランクリンの曲を破って同じ部門を受賞した。1976年には初来日し、「ミスター・メロディ」で東京音楽祭のグランプリを受賞した。1977年には全米総合5位、R&B部門1位となった「アイヴ・ガット・ラヴ・オン・マイ・マインド」などのヒットを飛ばしたが、1980年代に入るとセールスは大きく落ち込み、麻薬中毒に陥って一時活動を休止するなど、不遇の時を過ごした。
1987年のアルバム『永遠の夢』でR&Bの路線から離れてポップ歌手として戻り、1988年にブルース・スプリングスティーンの曲をカバーした「ピンク・キャデラック」のヒットで復活した。翌1989年の「ミス・ユー・ライク・クレイジー」は、R&Bとアダルト・コンテンポラリー部門で1位、全英のシングルチャートで2位を記録している。1991年には父のカバー集『アンフォゲッタブル』を発表し、全米ポップチャートで5週1位という、ジャズ作品としては異例の大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞した。黒人女性としては初の受賞であった。表題曲では、亡き父の音源に重ねて歌う「共演」が話題を呼び、この曲も同年のグラミー賞の年間最優秀楽曲賞に輝いた。生涯でグラミー賞を9回受賞し、世界で3千万枚以上を売り上げた。
2008年にC型肝炎の感染を公表して腎臓移植手術を受けた。2015年12月31日、ロサンゼルスで心臓疾患などのために死去した。
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