HISTORICAL PERSON · 2015年没

ベネディクト・アンダーソン

アイルランド国籍の政治学者で、コーネル大学の名誉教授。インドネシアの政治を専門とし、1972年にスハルト政権から入国を禁止されたため、研究の場をタイに移した。

生涯
2015年没
死亡地
インドネシア共和国(東ジャワ州 / バトゥ)
出生地
中華人民共和国(昆明市)
出典
世界地図
インドネシア共和国(東ジャワ州)

伝記

ベネディクト・リチャード・オゴーマン・アンダーソンは、1936年8月26日に中国雲南省の昆明で生まれた政治学者であり、歴史学者である。アメリカで暮らして教えたが、アイルランド国籍を持ち続けた。父ジェームズ・キャリュー・オゴーマン・アンダーソンは、アイルランド系とアングロ・アイリッシュの血を引く、中国の海関の職員で、母はイングランドの出身だった。母方の祖父は、ロンドン警視庁の副総監を務めた人物である。祖母のひとりは、アイルランドの自治を求めた議員の娘で、ミドルネームは、1848年の青年アイルランド党の反乱の指導者のひとりにちなむ。弟のペリー・アンダーソンも歴史学者で、西欧のマルクス主義の研究者として知られる。

1941年に日中戦争を避けて、一家でカリフォルニアに移り、1945年にはアイルランドに移った。イートン校でニューカッスル奨学金を得て、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに進み、古典学を専攻して1957年に卒業した。大学在学中にスエズ危機が起き、反帝国主義の立場に立ったことが、のちのマルクス主義的で反植民地主義的な思想に影響したとされる。1958年1月にコーネル大学の大学院に入り、研究の対象をインドネシアに定めた。指導教授は東南アジア研究者のジョージ・カヒンだった。1962年から2年間、インドネシアで現地調査を行い、1966年には研究誌『インドネシア』を中心になって創刊した。1967年に政治学の博士号を取得し、その後は同大学で教えた。

1965年9月の政変の後、スハルトが権力を握ったインドネシアで起きた暴力に、アンダーソンは幻滅した。愛する人が殺人者だと知ったような気持ちだったと記している。まだ大学院生だったが、ルース・マクヴェイとともに匿名で「コーネル・ペーパー」を書き、政府の公式見解を覆した。これは国外のインドネシア人の反体制派にも広まった。1971年のインドネシア共産党書記長スディスマンの裁判には、外国人の証人2人のうちの1人として立ち会い、訳文を発表した。こうした行動から、1972年にスハルト政権によってインドネシアへの入国を禁じられ、研究の場をタイに移して、タイの言語、文化、政治の研究を始めた。1976年にコーネル大学の教授に昇進し、1994年にアメリカ芸術・科学アカデミーの会員に選ばれた。入国禁止は、1998年にスハルトが辞任するまで続いた。

ベトナム戦争の経験や、共産主義国どうしの戦争を見て、ナショナリズムの起源を研究し始めた。1983年の著書『想像の共同体』では、出版資本主義、巡礼、公定ナショナリズムといった概念を駆使して、国民がどのように構築されるかを明らかにし、国民を「想像された政治的共同体」と定義した。20以上の言語に翻訳され、研究の新境地を開いた。『言葉と権力』『比較の亡霊』『三つの旗のもとに』なども著した。1998年にアジア研究協会の学術功労賞、2000年に福岡アジア文化賞の学術研究賞を受けた。2002年にコーネル大学を退職し、名誉教授となってからは、東南アジアを旅して過ごした。2015年12月13日、インドネシアの東ジャワ州バトゥのホテルで、睡眠中に心不全により死去した。日本語で先に刊行された回想録の校正の最中だったという。

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