伝記
ジークフリート・レンツは1926年3月17日、東プロイセンのリュック(現在のポーランド領エウク)に、税関吏の息子として生まれたドイツの小説家である。幼いころに父を失い、しばらくは母と離れて、祖母の家から学校に通った。1943年に大学入学資格試験を取得したあと、海軍に徴兵され、士官候補生として艦船に乗り組んだ。ドイツの降伏が近づくなか、デンマークで部隊から逃亡し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州でイギリス軍の捕虜となって、のちにはイギリス軍の通訳として暮らした。2007年6月に公表された文書により、1944年4月20日、18歳でナチス党に入党していたことが明らかになったが、本人は、自分の知らないうちに集団で入党させられたのだと述べている。
終戦後はハンブルク大学で哲学、英文学、文芸学を学んだが、中退して日刊紙『ディ・ヴェルト』の見習いとなり、同紙の編集者を務めた。1951年に長編『空には青鷹がいた』で作家としてデビューした。その収入でケニアへ旅し、現地で起きたマウマウ団の蜂起を題材に短編を書いている。以後はハンブルクで自由な作家として暮らし、同じころに「四七年グループ」にも加わった。
1968年の『国語の時間』は、画家エミール・ノルデをモデルにした作品で、大きな成功を収め、現代ドイツを代表する作家としての地位を確立した。長編には『愉しかりしわが闇市』『アルネの遺品』『遺失物管理所』などがあり、2008年の中編『黙祷の時間』もある。日本では『国語の時間』が1971年に丸山匠の訳で刊行され、『アルネの遺品』(2003年)、『遺失物管理所』(2005年)、『黙祷の時間』(2010年)は松永美穂の訳で出版された。短編集や戯曲、ラジオ劇も書き、幅広い分野で活動した。
政治的にはギュンター・グラスとともに社会民主党にかかわり、ヴィリー・ブラント首相の東方外交を支持した。1970年のワルシャワ条約の調印に際しては、ドイツ代表団の一員としてワルシャワに招かれている。東欧との和解を支持する立場だった。2003年には、1996年の正書法改革に抗議して、ドイツ語の正書法と言語の保全を目指す協会に加わり、同じ年にハインリヒ・ハイネ大学の客員教授にも就任した。
栄誉も多く、1988年にはドイツ書籍協会平和賞を受け、2000年にはゲーテ生誕250年を記念するフランクフルト市のゲーテ賞を受けた。翌2001年にはハンブルクの名誉市民となり、2004年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の名誉市民、2011年10月には、国境変更でポーランド領となった故郷エウクの名誉市民になった。2010年にはイタリアで国際ノニーノ賞も受けている。妻リーゼロッテとは57年連れ添ったが、2006年に死別し、その4年後に隣人のウラと再婚した。2014年10月7日、88歳でハンブルクにて亡くなった。没後には、1951年に書かれて遺品から見つかった未発表の長編が刊行された。ドイツ兵がソ連軍側に投降する物語である。彼の名を冠した文学賞は、死の直前の2014年に本人が発案し、財団が隔年でハンブルクで贈っている。
同じ年に亡くなった人物
- Fyodor Bogdanovsky (2014年没)
- フランソワ・カヴァナ (2014年没)
- マーチン・パール (2014年没)
- アラン・J・ディクソン (2014年没)
- ムブイレニ・ムラウジ (2014年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・フォン・レットウ=フォルベック (1964年没)
- カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1788年没)
- William Augustus, Duke of Brunswick-Harburg (1642年没)
- エーリヒ・バイ (1943年没)
- ハインツ・エアハルト (1979年没)