伝記
シャーリー・ジェーン・テンプルは、1928年4月23日にカリフォルニア州サンタモニカで生まれた、アメリカ合衆国の女優である。結婚後の名はシャーリー・テンプル・ブラックという。1930年代のアメリカを象徴するスターで、のちに外交官や企業の社外役員も務め、6歳から85歳で亡くなるまで名士であり続けた。父ジョージは、娘が生まれたとき、当時の大手銀行のサンタモニカ支店長だった。母ガートルードは専業主婦で、二人の兄がいた。一族は長老派のプロテスタントで、代々、医者か弁護士か銀行員を職業としており、演劇や映画を軽んじる傾向があったため、娘が少女スターになったときの一族の反応には複雑なものがあったという。
母は妊娠中、音楽や美しい絵に接して胎教に努めたといい、赤ん坊のころからダンスと音楽に強い関心を示したという話はアメリカでよく知られる。家庭は円満で、栄養を考えた食事と規則正しい暮らしで、3歳までほとんど病気をしなかった。3歳の1931年に、母が彼女をメグリン・ダンス学校に入れた。1932年から1933年にかけて、幼児だけが出る喜劇の短編シリーズを十本以上こなした。フォックス・フィルム社に見出されて、1933年に7年契約を結び、『歓呼の嵐』に出演して準主役ながら高い評価を受けた。パラマウントに貸し出されて、『可愛いマーカちゃん』の主役を務め、一夜にしてアメリカを熱狂させた。『ベビイお目見得』にも主演し、これを見たフランクリン・ルーズベルト大統領は、ラジオの炉辺談話で、大不況のさなか、映画で見るシャーリーの笑顔に国民が励まされるのは素晴らしいと述べた。
6歳で看板女優となり、大恐慌下で倒産しかけていたフォックス・フィルム社を、一連の作品の成功で救った。『輝く瞳』から『小連隊長』(1935年)へと、ヒット作が続いた。持ち味は生真面目で勤勉な性格で、出演が決まると、撮影の前に登場人物全員の台詞を暗記し、台本には書き込みをしなかった。失敗することなく一回の撮影で監督を満足させたため、ジョン・フォードに「一回撮りのシャーリー」と褒められた。『可愛いマーカちゃん』のころ、ホテルで見知らぬ男性に抱き上げられ、数千人の信者の集まる大広間のステージに連れて行かれた。何か挨拶を頼まれると、笑顔でメダルの礼を言い、大会の成功を祈り、投げキスで結んで、大きな拍手を浴びたという。
ファンレターは週に4000通を超え、やがて週に1万通を超えて、会社は専属秘書を10人付けた。『可愛いマーカちゃん』の翌年、映画界での功績に対してアカデミー賞の特別賞を受けた。6歳での受賞は、同賞のすべての分野での最年少記録である。午前1時半過ぎに自分の番が来て挨拶を済ませたあと、ステージを降りて「ママ、もう帰っていいの?」とささやき、その声がマイクに拾われて会場が笑いに包まれたという。母は娘にぴったり付き添い、映画界の悪い影響から守った。会社も撮影所内に専用の家とおもちゃを用意し、他の子役や裏方と遊ぶことを禁じた。撮影所では仕事が4時間、勉強が3時間で、帰宅後は近所の子どもたちと遊んだ。小学校には通わず、専任の家庭教師が付いた。
1950年に幸福な結婚をして映画界を引退した。10年ほど3人の子を育てながらテレビ番組に出演し、40代から外交官や企業の社外役員などを務めた。テンプル自身は、人生に女優、母親、外交官の3つの時代があったと述べている。2014年2月10日、サンフランシスコ郊外のウッドサイドの邸宅で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アミリ・バラカ (2014年没)
- クラス・インゲソン (2014年没)
- Esther M. Conwell (2014年没)
- ユップ・ランゲ (2014年没)
- フアン・ヘルマン (2014年没)
同じ地域に関係する人物
- アレックス・オルメド (2020年没)
- エヴァ・ガボール (1995年没)
- トニー・バートン (俳優) (2016年没)
- カール・アンダーソン (歌手) (2004年没)
- メアリー・ブライアン (2002年没)