伝記
アリエル・シャロンは、本名をアリエル・シャイネルマンといい、1928年2月26日に生まれ、2014年1月11日に没したイスラエルの政治家であり、軍人である。愛称は「ブルドーザー」で、イスラエルの第15代首相を務めた。リクードの第4代党首、カディーマの初代党首も歴任した。パレスチナに強硬な姿勢を貫くタカ派と言われたが、イスラエルの首相として初めてパレスチナ国家の独立を明言した人物でもあった。
イギリスの委任統治下のパレスチナにあるキブツ、クファル・マラルに、ウクライナ系移民の長男として生まれた。家庭は熱心なシオニストで、母からは常に「アラブ人を信じるな」と教えられたという。1942年、14歳でユダヤ人の準軍事組織ハガナーに入隊し、軍事訓練を受けた。1948年のイスラエル独立宣言とともに第一次中東戦争が始まると、アレクサンドロニ旅団の歩兵中隊長として従軍し、ラトルン要塞をめぐる戦闘で大腿部に重傷を負ったが、戦友に救われて一命を取り留めた。その後いったん軍を離れ、1952年から翌年にかけてエルサレムのヘブライ大学で法学や東洋史を学んだ。1953年に国防軍に復帰して、ゲリラ戦に対応する小規模な特殊部隊「第101特殊コマンド」の初代指揮官に任じられた。ヨルダン川西岸やガザ地区を拠点とする反イスラエル組織の壊滅を任務とし、成果を挙げて評価を高めたが、1955年に隊員の私的な報復で数人のベドウィンが殺されたとして停職になった。部隊は1956年に第202空挺旅団に改編され、大佐に昇進したシャロンが指揮官を務めた。
1956年の第二次中東戦争では、シナイ半島のミトラ峠の封鎖を命じられたが、戦闘を避けるよう命じられていたにもかかわらず、「偵察」と称して大規模な攻撃を行い、峠を占領した。損失が出て、モシェ・ダヤンから叱責を受けたが、前線の独断が珍しくなかったため、命令違反は大きな問題とならなかった。1967年の第三次中東戦争では師団長としてシナイ半島で活躍し、戦後は南部方面軍の司令官となった。独断的な性格が嫌われ、参謀総長には就けず、1972年6月に退役した。1973年の第四次中東戦争では現役に復帰し、師団長としてスエズ運河を逆渡河する反撃作戦を成功させ、国民の人気を得た。上官の命令を無視して作戦を進めたため、罷免の要求も出たが、兵士に人気があるとして通らなかった。
同年の国会選挙にリクードから出馬して当選した。1975年のラビン政権、続く1977年のベギン政権では農水相となり、入植地の建設を積極的に推し進めた。1981年にベギン政権の国防相となり、1982年にはシナイ半島返還に伴い、ヤミットの入植地を解体して2000人を退去させた。同年、PLOを追い出すためレバノンに侵攻し、ベイルートに達した。親イスラエルの大統領が暗殺されたあと、民兵がサブラ・シャティーラの難民キャンプで千人前後を殺害し、シャロンは責任を取って国防相を辞任した。1990年のシャミール政権では住宅建設相となり、旧ソ連からの移民の入植を奨励した。1999年にリクード党首となり、2000年9月28日に武装した護衛とともに神殿の丘を訪れ、パレスチナ人との衝突が、アルアクサ・インティファーダのきっかけになった。2001年の首相選挙でバラックに大差で勝って首相に就任し、2003年の総選挙で圧勝した。政権末期には極端な肥満で、それが脳卒中の原因になった可能性が指摘されている。
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