伝記
エドゥアルド・シェワルナゼは、1928年1月25日に生まれ、2014年7月7日に没したソビエト連邦およびグルジア(ジョージア)の政治家である。1985年から1990年と1991年にソ連の外務大臣を務め、1995年から2003年までグルジアの大統領を務めた。日本の報道では、外相当時はシュワルナゼと書かれることが多かった。
グルジア共和国ランチフティ地区のママティ村に生まれた。父アンブロシは教師で、熱心な共産主義者であり党の役職者でもあったが、母は共産党政権に敬意を持たず、息子と夫の党での出世に反対していた。1937年の大粛清で父は逮捕されたが、教え子の内務人民委員部の職員が介入して釈放された。1946年にトビリシでコムソモールの指導員になり、1948年に20歳で共産党に入党した。1957年にグルジアのコムソモールの第一書記となった。この頃、フルシチョフのスターリン批判の秘密演説や、1956年のグルジアの抗議行動への政府の対応に衝撃を受け、ソ連の政治体制に幻滅したと語っている。1959年にクタイシ教育大学を卒業した。1965年にグルジア共和国の保安相となり、保安省が内務省に改編されたのに伴って、1968年に内相に就いた。汚職の摘発で名を上げ、第一書記を汚職で告発した。
1972年にグルジア共産党の第一書記に就き、事実上の最高指導者となって、汚職の摘発と、腐敗した党幹部の大量解任を断行した。経済改革にも取り組み、全国が停滞するなかで、共和国の経済成長を促した。1978年に新憲法案からジョージア語の国語規定が削除されると、大規模なデモが起き、撤回を余儀なくされた。以後は民族主義に配慮し、世論調査の導入などを実験的に行った。ゴルバチョフがスタヴロポリの第一書記だった頃からの知り合いで、1985年3月にゴルバチョフが書記長になると、7月に政治局員に抜擢された。長く外相を務めたグロムイコが転出した後任の外相となった。外交の経歴はなく、手腕は未知数と見られたが、ゴルバチョフの新思考外交の推進役となり、ペレストロイカの片腕と目された。1986年1月には、ソ連の外相として10年ぶりに来日している。1990年12月に「独裁が近づいている」と訴えて外相を電撃的に辞任したが、1991年8月のクーデターでは、いち早く最高会議ビルに駆けつけてエリツィンの支持を訴え、軟禁されていたゴルバチョフの救出に成功した。その後、外相に復帰し、ソ連崩壊とともに辞任した。
グルジアは、ガムサフルディア大統領が民族主義と強権政治を強めて混乱し、1992年1月のクーデターで彼が国外へ逃れた。国際的な知名度の高い彼が呼び戻され、1992年3月に国家評議会議長となった。同年8月にアブハジアで戦争が起こり、グルジアはその支配を失った。1993年の内戦ではガムサフルディア派に勝利し、独立国家共同体への加盟条約に署名してロシアの援助を受けたが、アメリカや欧州との関係も深めた。1995年に新憲法が採択され、11月に大統領に選ばれ、2000年に再選された。国営企業の民営化を進めたが、政権の後期には汚職が蔓延し、電力などの供給不安も広がった。2003年11月の議会選挙の不正に抗議する野党が議会を占拠し、11月23日に辞任に追い込まれた。ドイツ統一に尽力したことを評価するドイツから亡命を勧められたが、祖国に留まった。晩年はトビリシ郊外の自宅で過ごし、2014年7月7日に86歳で死去した。
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