伝記
エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラは、1942年1月25日、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)のロウレンソ・マルケス(現在のマプト)のマファララ地区に生まれたサッカー選手である。ポジションはフォワード。父ラウリンド・アントニオは、アンゴラのマランジェ出身の白人の鉄道労働者で、母エリザ・アニサベニは黒人のモザンビーク人だった。五人きょうだいの四番目だった。きわめて貧しい地区で育ち、学校をさぼっては、友達と素足でサッカーをした。靴下に新聞紙を詰めてボールの代わりにし、友人たちと「ブラジル人たち」という名のアマチュアのチームを作った。その名は、1950年代のブラジル代表にちなんだものである。父は若いころサッカーをし、リスボンのベンフィカを応援していたが、エウゼビオが8歳の1950年に破傷風で亡くなり、母が彼をほぼ一人で育てた。
好きなチームの下部組織には入れなかったが、12歳でスポルティング・ロウレンソ・マルケスが、近所の友人とまとめて受け入れ、そこで初めて指導を受けて、用具をもらい、組織的な試合に出た。15歳のとき、イタリアのクラブの元ゴールキーパーのスカウトに見出され、獲得の話もあったが、母がいっさい耳を貸さなかったと、彼は語っている。1957年から1960年までこのクラブで過ごした。1960年、ジョゼ・カルロス・バウエルに見出され、ベンフィカのスカウトによってポルトガルへ連れて来られ、直後に契約した。ベンフィカでのデビュー戦は、ペレを擁するサントスとの試合で、いきなりハットトリックを決めた。
ベンフィカには15シーズン在籍し、リーグ優勝10回、カップ優勝5回、リーグ得点王7回を記録し、得点王の数は歴代最多である。1962年のヨーロッパ・チャンピオンズカップ決勝では、2得点を含むベンフィカの5点により、5対3でレアル・マドリードを下して優勝した。翌年の決勝は、前半18分に先制点を決めたが、1対2でACミランに敗れた。この大会での通算48得点は、アルフレッド・ディ・ステファノに次ぐ。1965年にはバロンドールを受賞した。「黒豹」「黒い真珠」と呼ばれ、陸上の短距離でも通用すると言われた爆発的な加速力と、強烈なシュートを武器に、同時代のペレと並び称された。軸足を大きく踏み出すシュートの形は、日本の釜本邦茂に強い影響を与えた。
1961年10月8日、ルクセンブルク戦でポルトガル代表にデビューし、代表通算64試合で41得点を挙げた。1966年のイングランド大会の準々決勝では、北朝鮮を相手に、前半24分までに0対3とリードされた。そこから前半に2点を返し、後半の56分に同点とし、直後にペナルティキックを決めて、1人で4点を連取し、試合をひっくり返した。試合は、5対3でポルトガルの勝ちとなった。この大会は3位で、彼は6試合で9得点を挙げて得点王となった。1975年からアメリカやメキシコなどのクラブを渡り歩き、1978年に現役を退いた。試合後に相手選手をたたえることを忘れず、人格的にも優れた人物と評された。2014年1月5日、心不全のため亡くなった。大統領や首相も追悼の言葉を寄せた。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドラ・バステード (2014年没)
- カルメン・サパタ (2014年没)
- Ernest Muhlen (2014年没)
- オッド・イヴェルセン (2014年没)
- リセ (2014年没)
同じ地域に関係する人物
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