伝記
パティ・ペイジは、1927年11月8日にアメリカ合衆国のオクラホマ州クレアモアで生まれ、2013年1月1日にカリフォルニア州で亡くなった歌手である(生地をマスコギーとする資料もある)。本名はクララ・アン・ファウラー。アメリカのスタンダード・ポップスを代表する女性歌手で、1950年代に女性歌手として最も多くのレコードを売り上げた。ポピュラー音楽からカントリー・ミュージックへ領域を広げた先駆者の一人でもあり、生涯にわたって舞台に立ち続けた。
3人の男子と8人の女子がいる、11人きょうだいの大家族の貧しい家に生まれた。父は鉄道の線路工夫として働き、母と姉たちは綿花摘みをして生計を立てた。のちにテレビで語ったところでは、一家は電気のない暮らしで、日が暮れると本を読むこともできなかったという。タルサの高校を1945年に卒業した。18歳のとき、タルサのラジオ局の15分番組に歌手として出演するようになった。この番組のスポンサーがペイジ乳業だったため、クララはパティ・ペイジと名乗った。1946年、サックス奏者でバンドの運営も手がけていたジャック・リールが、一夜限りの演奏でタルサを訪れ、ラジオで聴いたペイジの歌が気に入って、ジミー・ジョイ・バンドへの加入を誘った。のちにバンドを離れ、リールはペイジの個人マネージャーとなった。
その後、シカゴで、有名な楽団の指揮者ベニー・グッドマンが率いる小さな楽団と歌い、これがきっかけでマーキュリー・レコードに迎えられた。最初の2枚はヒットしなかったが、1947年に録音した3枚目の「コンフェス」で成功した。この曲には他の歌手が応答する部分があり、別の歌手を起用する予算がなかったため、リールがペイジに自分でも歌うよう勧めた。技師が、2枚の原盤を同期させて声を重ねる手法で録音し、ペイジはポピュラー歌手として初めて、自分の声で和声をつけたとされる。この目新しさもあってか、曲は全米のチャートで上位に入った。この成功に気をよくして、一曲全体を四重唱として歌う録音にも挑み、1950年の「ウィズ・マイ・アイズ・ワイド・オープン・アイム・ドリーミング」で、最初のミリオンセールスを記録した。
ヒット・チャートで初めて1位になったのは、ボレロを翻案した「オール・マイ・ラブ」で、1950年に5週間にわたって1位となった。最大のヒット曲は、同じ1950年に出した「テネシーワルツ」で、13週間にわたって1位の座にあり、累計の売り上げは600万枚に達した。1950年代最大のヒットとされ、現在はテネシー州の公式の歌の一つにもなっている。1953年にはナンセンス・ソングの「ザット・ドギー・イン・ザ・ウィンドウ」で再び1位を記録した。1963年にコロムビア・レコードに移り、その年の5月に来日して、東京と大阪で日本初のコンサートを行った。
1970年代にはカントリーの色を強め、カントリーのチャートでも成功し、5つの異なる年代でチャートに入った数少ない歌手の一人となった。1990年代には自身のレーベルを設立し、1998年にはグラミー賞の最優秀スタンダード歌手賞を受賞した。2007年にはヒット・パレードの殿堂に顕彰された。晩年も録音を続けた。1956年に振付師のチャールズ・オカランと結婚して二人の子をもうけ、1972年に離婚した。1990年にはジェリー・フィリチオットと結婚し、ニューハンプシャー州でメープルシロップの事業に従事した。2013年2月の第55回グラミー賞で、功労賞が贈られた。
同じ年に亡くなった人物
- スタニスラフ・ステパシュキン (2013年没)
- マルタ・エゲルト (2013年没)
- ペドロ・ローシャ (2013年没)
- Hans Schnitger (2013年没)
- シャーリー・ミッチェル (2013年没)
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- フランチェスコ・クイン (2011年没)
- マル・エヴァンズ (1976年没)
- ポール・グリーソン (2006年没)
- キャスリン・グレイソン (2010年没)